下記のURLの「私的 昭和TV大全集」によると
1970年から放映された番組・・・ということは
私が9歳のときから・・・だったんですねぇ・・

「ステージ101」(NHK)

をご存知の方、いらっしゃいますでしょうか?

(ご存知ない方はこちらをどうぞ)
http://goinkyo.blog2.fc2.com/blog-entry-206.html

で、この番組で、歌われた歌の中で、
妹と、NHKに歌詞まで取り寄せていたという
歌があったりして・・・ときどきそれを思い出します

で・・

概して今の曲とはちがって、
なんとなく、素朴なものが多かったのですが
その中でも、もっとも能天気?と思われる歌で・・
こんな歌詞のものがあります

「のんびりいこうよ
 俺たちは
 仕事もなければ
 金もない
 寝るとこなくても
 心配するな
 なんとかなるさ
 世の中は〜♪

 (のんびりいこう
  のんびりいこう)

 何を求めて生きるのか
 いくつになっても
 わからない

 雨が降ったらびしょぬれさ
 だけどなんとなく
 しあわせさ〜♪」

ご存知の方いらっしゃいますか?
これって、下記のCDの中から
推測するに 塩見大治郎が歌っていた
「のんびり」っていう曲だったのかなぁ・・って^^;

(NHKサービスセンターで売られているCD)
http://shop.nhk-sc.or.jp/shop/goods/goods.asp?goods=020200044

まったくもって、悠長な歌ですよねぇ・・
でも

ふと、この歌を思い出して
穏やかな気持ちになる自分がいたりする
あのころは、そういうふうに思っていても
「いや・・まだ明日はある」ってな
気持ちにもなれる社会だったのかもしれませんねぇ・・

それに比べると今のなんと世知辛い世の中になったこと
でしょう・・
たった40年弱しか過ぎていないのに・・
(って・・十分過ぎてるか・・)

ほかにも

「キラキラ輝く
 光の中二人きり
 恋をするには
 まぶしすぎた

 ・・・(中略・・忘れた)・・
 
 だから あのとき
 言い出せなかった
 恋敵はにくい太陽さ〜♪」

っていうのもありましたなぁ・・^^;

当時、妹が樋口康雄のことを
ピコとかいって(ステージ101でそう呼ばれていた?)
結構ファンだったような・・ 

(樋口庸雄について)
http://wmg.jp/artist/higuchiyasuo/

太田裕美もここ出身だったのですねぇ・・
この番組に出演していた若い歌手のことを、

「ヤング101」

と称していたんですねぇ・・
田中星児(のち歌のおにいさんで有名に)も
ここの出身だし・・・

まぁ・・

懐かしいなぁ・・と思いつつ・・
このころの、こういう能天気な感じって
私の性格の一部でもあるかなぁ・・と

ここ数日の自分自身の生活の変化への
最終的な結論を、無理やりここへ
もってきたいピーターパンなのでありました^^;
は、やっぱり軍事費の穴埋め・・・って
ことが判明しました

(WIKIPEDIAより)
世界の印紙税
1624年 オランダでオランダ独立戦争の戦費調達のため、税務職員ヨハネス・ファン・デン・ブルックが発明。
1660年 デンマークで導入
1673年 フランスで導入
1694年 イギリスで導入

夫が戻ってきて少し印紙税についての話をしたのですが、夫いわく「それはロシア帝国から始まったらしい」とのこと・・さっそく調べてみると、それはちょっと違っていて、ロシア帝国のピョートル大帝が「スウェーデンがポーランドとの全面戦争に突入している貴重な時間を利用して、ピョートルはロシア軍の建て直しを図ります。「利得者」といわれる税源発見の役人を登用し、髭税(髭を生やしているとかけられる税金)、印紙税などの大量の臨時税を導入しました。」という有名な話を知っていたということみたい・・^^; とかく戦争にはお金が要るって言うことですなぁ・・ 

ま・・ともかくも印紙税というのは、なんとかお金を搾り取るために考え出された実に利己的な税金・・・っていう解釈もできなくもない・・ ピョートル大帝の髭税は、なくなっても印紙税だけはなくなっていないというところ・・なんとなく文書に課税されるということだけで、ばかばかしさが軽減されてるんでしょーかね(もちろん根拠なき憶測です) ま・・今日初めて印紙税なるものを知って・・ほんと世の中のおもしろさっていうか・・なんでもかんでもありって、どこの国でもやってるんだなぁ〜と、なんとなくおかしく思えたのでありました^^;
ありがとうございます
気づいたときに相互リンクさせていただいているのですが、
コメントのひとつもつけずの行為ですので、
ここでまとまめて(怠慢でごめんなさい)
お詫びさせていただきます ごめんなさい!

もともとこの日記をつけているのは
日記をつける習慣があるのと、字で書くより
タイピングするほうが手っ取り早いということと、
あと、自分の寿命もあとどれぐらいかわからないので
突然死んだときのために(苦笑)、子供たちや夫に
こんなこと考えて生きていたんだ・・ということを
残しておきたいと思ったからです

ゆえに、独りよがりなことも多いし、世情についての
記事などを載せることも少ないきわめて個人的日記に
なっています

リンクに対しても最低限の挨拶さえ
怠慢しておりますが、どうぞ平にお許しくださいませ
こんなの見つけたのですが、不謹慎かなぁ・・・

http://www.bastardidentro.it/node/view/18910
仕事をし始めた当初は仕事のことばかり書いていましたが、半年を経過して、やっと他の話題を書くことができる余裕みたいなものが生まれてきているなぁ〜と実感しています

今日は、畳の部屋に敷く夏用のイグサカーペットが届くこともあり、また子供部屋が大いに汚れているということもあり、定時ちょっと前に終わった仕事をいいことに大掃除をしました!あぁ〜いつもながら掃除し終わったあとってものすごくすっきりする>気持ち なによりなによりでございます

で、今朝のFIFAブラジル戦は朝4時開始ということもあり、早々にあきらめ(寝たのが2時半ですから無理というもの・・)うっかり寝過ごして朝8時に夫からの電話で目が覚めてしまうという失態をしてしまった^^; 
まぁ・・遅刻はしなかったし、配達部数も少なくてよかったよかった・・ 昨日遅くなってしまったのは、実はネットサーフィンしてしまい、懐かしいものを見つけてしまったのが原因です!いけませんなぁ・・>夜更かし兼業主婦

で、何を見つけたか?というと・・・

「幽霊屋敷のどぼちょん一家」

という、私が小学校4年生ぐらいのときに夕方4時からやっていたアニメ(アメリカものらしい^^;)のほんの一こまの画像です

コンパなどで「よく観ていたアニメやTV番組」って話題になったりしませんか?で、ここでも東京をひしひしと感じたのですが、アニメって地方でしかしていないものもあって、このどぼちょん一家っていうのは関東の人はあまり知らなかったのです どうもこれは中京、関西地区でオンエアされたものらしく、見ている人も少ないため、今までテレビでも「なつかしのアニメ特集」などでは一切紹介されたことがなかったのです

で、百聞は一見にしかずってことで・・

(なつかしのTVアニメ)
http://members4.tsukaeru.net/hasu/anime/anime.htm

いや〜これ・・みて、ちょっと感激してしまいました どぼちょん一家も載っているし、他にも「うめぼし殿下」なんぞがあったりして・・懐かしい〜!私は女なのに「タイガーマスク」とか「デビルマン」「マジンガーZ」など好きでした デビルマンなぞ最終回のときは親の英会話のカセットレコーダーを拝借して主題歌を録音したりしました 今はもう捨てちゃってないですけど・・

ここに前述のどぼちょん一家があるのですが、私が観た番組では「幽霊屋敷のどぼちょん一家」だったのですが、ここでは「幽霊城のどぼちょん一家』になっているみたいですなぁ・・夫にも確認したのですが、やはり夫も幽霊屋敷で覚えてましたから・・ここのところどちらで放送されていたか・・なぞであります でも子供のときに覚えていたタイトルだから、間違えようがないんですけどね^^;

で、もうひとつ懐かしいのを発見!
それは・・「わんぱくフリッパー」

http://www1.odn.ne.jp/~aaa55210/personal/music/friiper.htm

これこれ・・
このTVをみて、イルカの知能の高さと人懐っこい性格を知ったのでした ほんと、あの鳴き声・・そして立ち泳ぎ?しながら愛想をふりまく様がよみがえってきてしまいました ハイ!

女の子でしたので、『魔法使いサリー』をもちろんみていましたが、その後の「魔法のアッコちゃん」なんてすごく好きだったなぁ・・あのコンパクト・・ほしかったけど・・当時宣伝というのが販促のためとはわからないほど、我が家は宣伝をみたからといって買ってくれる親じゃなかったのです ですから遠い目で見ていました・・ アッコちゃんだけでなくって、次の魔法の女の子「魔法のまこちゃん」(人魚姫をモチーフにしたようなアニメ)も好きだったなぁ・・ さるとびえっちゃんは見なかったけど^^;

でも、よくみてみると「ガボテン島」っていうのも見てたかも?主題歌の出だしが「ガッボッテン ガボッテン ガッボッテン ガボ ガボッテン・・・・ガボテン島!!」だったような・・なんとなく今でも歌えるけど、内容は覚えてない・・ これ夫がみたら喜ぶだろうなぁ〜 なにせ彼は筋金入りの「テレビっ子」ですから どの番組がいつの何時からで、その裏番組が何だったとまでいえるのだから・・おそろしい・・おまけにCMまで覚えていたりするのはびっくりしてしまいます!

ん〜タイムトリップしちゃうなぁ〜

アニメではないけれど「悪魔くん」っていうのも怖かったなぁ・・頭から煙がもくもくもく〜って出てくるのがおどろおどろしかった・・・ 白黒テレビっていうのも雰囲気かもし出していたかもしれませんなぁ・・・

「悪魔くん」
http://dribox.g-serve.net/TV/akuma/akuma.htm

あと、NHKの人形劇で「南総里見八犬伝」も見入っていましたね かなり大ヒットしましたがこの後はしばらく観なくって、ずいぶんたって、高校生のときに
「プリンセス プリンプリン(プリンプリン物語)」っていうのを面白がって観てました プリンプリン王女の声を石川ひとみがやってました ここででてくる悪者に「ルチ将軍」っていうのがいて、この将軍の頭は前後にとても長くて、いつも「知能指数〜1300 チン!」などと表示されたりしててユニークで好きだったわ(笑) この頭の正体はなんと「隕石」だったというオチでしたけど・・

「プリンプリン物語」
http://www.cartoon.co.jp/program/prinprin/index.html
http://www001.upp.so-net.ne.jp/kindan-hm/purinpurin.html

なつかしいなぁ〜

ちなみに、中学校あたりから部活(水泳・テニス)ばかりしていたので、テレビは見なくなりました(プリンプリン物語だけは見てたっていう感じね^^;)その後テレビで記憶してるのは、大学に入ってから「松田聖子」の歌が大ヒットしたころに、歌番組をよく見てたのと、それから上京してすぐに地震があって恐怖におののいたので、地震の特集番組は見まくっていた・・というヘンナ大学生になってました まぁ・・もともと読書が嫌いだったのですがなぜか文芸部に入ってしまったこともあって、大学生からは結構読書をしてた・・っていう感じですねぇ・・ 頭の成長遅すぎ?!

蛇足ですが、ヨルダンにいるときに、ある関西方面からの奥様が「あのおっさん(一応先生なんですが)名前なんやったかな・・ あのハゲちゃびんのおっさん」
といったのです で、それを聞いていたお友達が「はげちゃびんっていう言葉、私たちの年代でよく使うけど、何の言葉でしたっけ?」という鋭いつっこみが・・で、結局彼女が思い出したのは

「ハクション大魔王」なのでした
http://www.flets-square.info/trial/from/tatsunoko/hakushon/index.html

そういえば、大魔王が呪文として唱える言葉が「あらびん ちょびん はげちゃびん」だったなぁ・・思わず大笑いしたという思い出があります ちなみにハクション大魔王って今もテレビでやってますが、この呪文が変わっちゃってるみたいですね さらには夫が北欧に長期出張していたときにあちらのテレビでこのアニメがオンエアされていたそうです 海外って日本の昔のアニメとかをやってるんですなぁ・・ インドネシアでドラえもんをみたときに、日本の家屋が映っていて(のび太の家)懐かしいなぁ・・と思ってみていたのが・・もう10年前になるんですな・・ 光陰矢のごとしであります!
似顔絵を描くときには当然ですが、性格的あるいは身体的に特徴があればあるほど描きやすい・・

で、社会人のときにまっさきに私の餌食になった人がいました
今仮に彼女をAさんと呼びましょう

Aさんは京都の女子大を卒業している才媛なのですが・・ でも、その大学の割には非常にトンチンカンなことを言ったりしたりすることが多かった たとえば・・

エピソード?

お客様からの電話対応というのもインストラクターである私たちの大切な仕事だったのですが、Aさんのところにも当然電話はかかってくる・・ で、何気なく仕事をしながら彼女の説明を聞いていたのです
あるとき彼女は、ある会社の名前を説明しだしたのです もちろんどういう漢字であるか?というのをね その会社は今はあるかどうかわかりませんが・・ それを聞いてたまげてしまった・・

彼女はこう説明していたのです

「えっと・・最初の漢字は 『大きいの大です』(ここまではよかった)次の漢字は『せいしのせい』です」

え? 静止?生死?製紙? 制止? ・・いや違う・・ その会社の名前は「○精電子」というところなのです・・

つーことは「精子の精」かい! おぃおぃおぃ・・・^^;

もちろん電話を切った彼女に他の熟語で説明したほうがいいと注意しておきました 彼女は「じゃ、何で説明すればいいの?」と聞き返してきたのですが・・ 「そりゃ、精神の精とか、精魂込めての精とかいろいろあるでしょうが・・」って・・ ここまで説明しなきゃ思い浮かばないほど、彼女の頭の中には「精子」という言葉が浸透していたのだろーか? クククッ 今思い出しても笑えるなぁ・・ 残念なのは、その電話のお客様が、○精電子さんに郵便を出すときに正しく書けたかどうかを確認できなかったことですなぁ・・・

(エピソード?)
電話での対応にはもちろんわれわれインストラクターの専門であるワープロOASYSの操作方法も含まれます
ある日Aさんは「頭ぞろえ機能」と「桁ぞろえ機能」の説明をしていた
で、「桁ぞろえ機能」というところになって、彼女はなんと違う言葉を言ってしまった 

「えぇっと・・ 桁そろえの場合は『デジタルタブ』というのを使います」

ん?デジタルタブ?デジタル?そりゃなんじゃい!(笑) ちょっとあなたインストラクターでしょうが・・ 「デジタル」と「デシマル」を混同するない! 

って、まぁ・・デシマルタブっていうのもわかりにくいものですよねぇ・・ 私は一般のお客様にもインストにも説明するときに間違えないようにこう説明していました

「わが社のインストラクターに『弟子丸』という者が本当にいるんです!この機能を使うときにはこの名前を思い出してくださいね!」ってね・・ 「デシマル」というのは正しくはdecimal つまり小数点という意味で、デシマルタブというのは『小数点でそろえる』という機能なのです 彼女への教育も私がしたほうがよかったかも?なぁんてね^^; で、みなさんはもう覚えました?「デシマルタブ」が「弟子丸タブ」に見えれば、もう完璧ですなぁ・・(笑)

まぁ・・こんなところにしておきましょう とにかく彼女の周りには抱腹絶倒ものの逸話が数多く存在していて、同期の私たちはいつも楽しませていただきました!こんなに鮮烈にできごとを覚えさせていただいているんだから、彼女の能力・オーラは並外れたものであるに違いありません! まぁ・・彼女の講習会を受けた人は・・ちょっと気の毒だったかもしれませんが・・^^;

ちなみに余談ですが、私はいつもゴロ(連想法出身ですからね)で、講習内容を覚えてもらっていました ワープロ検定2級の講師もやっていたのですが、「はがきは何判か?」と説明も

「永六輔がはがきを出す って覚えてね!」

つまり永六=A6 つまりA4の半分(A5)の半分(A6)ってことですな 意外と小さいでしょ?^^

まぁ・・私もこの程度ですから、あんまりえらそーなこと書けないんですけどね^^;

それにしても永六輔ってもうおじいちゃんになったせいか、最近テレビではすっかり見なくなりました もう講習会では永六輔といわれてもピンとこない人ばかりになっちゃって、使えないゴロになっちゃってますね 

そうそう・・似顔絵の話だった!
彼女は試行錯誤せずさっと似顔絵はかけました 彼女の顔だけでも十分にリアルに劇画化して加工しましたが、体の部分もある動物にたとえて描きました 彼女はやせて小さかったので、なんと「蟻」になってしまったのでした・・ 今考えてみれば、私もえげつないことしてますなぁ・・(苦笑) 時効だから許しておくれ>Aさん!
社会人時代 思い出話 その3(Nifty-Serveの巻)
日商岩井のNIと富士通のFが会社名となった「N.I.F」ですが、その当時はまだ「アマチュア無線」の愛好者が音声に代わる文字データのやりとり(チャットなど)の手段として使っていた「TeleStar」とか企業向けの「日経MIX」やアスキー、PC−VAN(現biglobe)などがあったりしたのでした 思い起こしてみれば、大学生のときにアルバイトをしていた中小企業金融公庫の情報室では、おもむろに電話をへんてこなトイレがつまったときに使うようなゴムでできたカップに受話器を押し込んで(もちろん音響カプラのことです!)情報を入手していたのがとても不思議だったのですが・・ アノ当時はまだ情報を通信で手に入れるにはパケット方式でとっても高い値段していたんですよね〜 私のチャット初体験はTeleStarで、カタカナしか打てなかったのですが、電話でもなく無線でもなく話ができるという体験はとっても楽しかったです(笑)思い出すなぁ・・ つくづく^^; そうそう、Wikipediaによるとあの当時1985年ぐらいのことだったのですよね 私が入社したのは84年ですから、NTT回線の端末設備の自由化とともに、ネット時代は幕開けになったということになりますなぁ・・・

(WikipediaHP ここに入って「パソコン通信」とひくと詳しくわかります)
http://ja.wikipedia.org/wiki

 最初のニフティは、Nifty−Serveとしてのスタートで、社内での試験運用の期間は、掲示板しかありませんでした その後、フォーラムなどがゾクゾクとできて、チャット、会議などができるようになったのです 知りたがり屋の私にとってこのシステムは夢のようなものでした 始まった当初は書き込みについても、興味を持っている理系の男性、知的な方が多く、書き込むと誠実な日本語で答えてもらえるのがものすごく楽しかった・・その当時はオフラインの会合などを、神田氏あるいはニフティ側の部長さんなども積極的に参加していて、冬山の箱根のホテルで一泊とまったりもしてましたよん なつかしいですねぇ・・

 奇しくもニフティーサーブで始まったニフティも、この「パソコン通信」という形態でのサービスは今年の3月をもって完了してしまうようです

(関連記事)
http://pcweb.mycom.co.jp/news/2005/02/16/005.html

 いまや富士通のワープロも製造中止となり、ニフティーサーブもサービス完了となってしまう ひとつの時代が終わったのだなぁ・・とつくづく思います 

 そういえば数年前にテニスをしていたとき、そこにいつもいる常連の方が「インストラクターされていたのですか そうですかぁ・・ そういえばアノ時代はワープロやパソコンのインストラクターっていうのは花形の職業でしたよねぇ」とつくづくおっしゃっていた なんだか一昔前の「エレベーターガール」とか「バスガール」と同等になったみたいで、寂しいかったですよぉ・・ぐすん(笑)

(ニフティ?の歴史)
http://www.nifty.co.jp/company/history/his_net/his_net_1.htm
社会人時代 思い出話 その2(富士通ワープロOASYSについて)
富士通という会社は、もともとは通信機から始まった会社で、(創業は1935年富士通信機製造株式会社)

ご参考(富士通の歴史)
http://pr.fujitsu.com/jp/profile/history/hist1.html

元々は富士電機製造?だったんですね この会社の通信部門が分離して富士通信機製造になったわけです さらにさかのぼれば、大元の会社は古河工業というのを新人研修のときに聞いたりしたわけですが・・

ご参考(古河工業と富士通のつながり)
http://www.nui.or.jp/zigyou/sem11-2.htm

まぁ・・会社の紹介はともかく、会社の中での大きな仕事はもちろんオフコンであって、当時はパソコンはNECに席捲されていましたし、富士通社内ではまだまだパーソナル機に対しての認識が甘いがためにNECにしてやられていて、名誉挽回のためにあがいていたというそんな時期だったように思います ワープロは富士通が小さなところで汚名?返上しようとしていた世界でもあったかなと・・ 今にして思えばそういう気もしないもないですなぁ・・

さて、インストラクターのお仕事といっても、ただショウルームに来たお客様に操作方法を教えるだけだはなく、大きく3つの仕事の分類がありました ひとつが、ショウルームで開催する講習会の実施(現在もあります 富士通マイゼミナールなるものです) ふたつめが、販売会社さまのインストラクターおよび営業さんへのOASYSの紹介と講習 または、社内新人研修、三つ目がデータショウ・ビジネスショウおよびその他の展示会での支援 ですね で、私は販売会社さまおよび社内の新人研修を主に担当させていただいたりしていました とはいっても、ビジネスショウなどで説明のおねーさんになったり、全国の支店のフェアの手伝いにいったりと、相互には協力しあったりもしていました・・ 最後の方は、富士通ワープロスクールなるものを立ち上げ、夜間に講習会などを開いていたりもしていました(現在はありません)私はどちらかといえば講習会の内容を立案し、テキストを作成したりするのが好きだったので、いろんな仕事をさせていただきましたが、講習会専門員としてのお仕事が一番はまっていたように思います

で、講習会では何を教えていたか?というと、操作方法はもちろん、OASYSの歴史、OASYSの開発思想などもあったわけで、これはものすごく勉強になりました

くだらない話ですが、OASYSって、あの砂漠にあるオアシスとは実はスペルが違います 砂漠のオアシスはOASIS ワープロのオアシスは OA(OFFICE AUTOMATION)SYS(SYSTEM)の略だったりします(一般公募して命名) まぁ・・こんな話から始まってどういう思想の下でOASYSは開発されたか?という話、その当時発売されていた機種以外にある発売当初からのOASYSの紹介など・・ 結構盛りだくさんの内容で講習をやってきました

で、歴史を紐解きます(笑)と、ワープロっていうのはそんなに古いものではなく、商用として実用化販売されたのは昭和54年のシャープが最初だったんですね 富士通のOASYSはその翌年の55年(つまり私が大学に入学した年)に発売され、名前は「OASYS100」でありました(写真ご参考) おぉ〜なつかしいですねぇ・・ フロッピィをまだディスケット(IBMの真似っこ)と呼んでいたころで、3,5インチではなく8インチもあったのです!印字は16ドットで文字にまだ点々が見られるもので・・ そんな粗い印字であってもちゃんと漢字が印刷される・・ 今のパソコンからは想像もつかないほどの遅いスピードで機能も貧弱だったのに、なんと価格は270万円もしたのです!うぅ〜 すごいですなぁ・・・・

その数年後にはパーソナル機の「MY OASYS」が発売されました(高見山関がCMに出ていました) この機種はたしか30万円したのですが、画面がたったの8文字!ほとんどタイプライターの延長上にあったと・・今となっては認めざるを得ないようなワープロ! しかし、文書保存機能や変換能力などは抜群の富士通の製品だったことは確かです

多種多様な製品が出たわけですが、この製品の開発者(富士通)の神田泰典氏
(神田氏の写真と履歴)
http://www.ykanda.jp/kanda.htm
と、インストラクター教育の関係で知り合うことができ、これはとても楽しい経験となりました
神田氏は、英文タイプライターを徹底的に研究して、そのデメリット、メリットを考えた上で、OASYSに特別の配列のキーボード「親指シフトキーボード」なるものをつけました 英文タイプの配列は左手側の上段の文字をとって「QWERTY方式」と言われています このQWERTY方式の良さは、文字が3段に配列されていることで、神田氏は英字の倍以上あるひらがなを「シフトキー」を使うことによってみごとに3段にまとめてしまった・・しかもシフトキーは指の動きを考え、親指のところにもってきて操作性をよくした・・これが親指シフトキーと呼ばれるゆえんなのです さらに文字配列は使用頻度の高いものをよく動く人差し指に集めるようにして、慣れてくるとかなりスピードで打てる設計にしてありました

 思い出してみれば、同じ神田氏が作った「JEFシステム」のキーボードの新聞記者発表のときに、たまたま残っていた私が同行し、デモンストレーションすることになったのですが、そのときにいらした開発メンバーのひとりのS氏が、私のタイピングの様子をみてつくづく「いや〜ほんと速く打てるなぁ・・通常タイプしていると、日本語の場合は、変換作業があるので、つねにカーソルは打ってはバックし、打ってはまた戻りと、後退しながら前進しているっていう感じですが、貴方の場合は常に前進しているように見える」と、開発したメンバーでありながらも感心なさっておられたのを思い出します

もっとも、私はタイピングについては器用だったようで、インストラクターの中でも速く打てる人間でした ちなみに速さだけの問題ではありませんが、社内でワープロ検定1級にもっとも早く合格したのは私ともう一人同期の友人なのでありました(もうなんの役にも立たない資格になってしまいましたが・・)

まぁ・・そういう話はさておき、そういえば神田氏からNHKから発行された「ワープロ 知的道具考」という書籍をサイン入りでいただいた覚えがあります 

(アマゾンで出ていた書籍)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140014784/250-7816687-6214663

神田氏とのご縁は、インスト教育をするにあたって、神田氏自らが講演をしてくださったときがあり、それからのおつきあいでした 神田氏の講演内容はとても面白く当時の日本語の変換が奇妙なものであったものを改善して「正確に確実な文章単位での変換」ができるようにしたことを、いろんな例を交えて説明してくださった(走るをRUNるとは言わないように、「走」と「る」を分けて変換する作業はおかしい・・・といった今では想像もつかない変換作業の原点を見直しておられた) メーカーで製品の開発に携わってきた中心人物とお話ができる幸せをつくづく感じていたものです

くしくも、その当時(入社して3年目あたり?)からいわゆる「パソコン通信」なるものを神田氏が普及しはじめており、当時富士通と日商岩井(現双日)とで設立した「N.I.F(エヌ・アイ・エフ)」の会社の方との接触が始まったのも神田氏にくっついてまわっていたおかげでありました(N.I.Fはその後Niftyとなりました)

ちなみに神田氏のHPを発見しました 神田氏は椿の花が好きで、ハンドルはずっとツバキとしておられましたが、日本のツバキの花の写真なども載っていて内容のあるHPですね(続く)

(神田氏のホームページ)
http://www.ykanda.jp/
社会人時代 思い出話 その1(富士通に入った理由)
朝からバカ騒ぎをして楽しんでいる長男次男をみていると少し違う雰囲気を一人で楽しみたくなって思い出話なぞを書きたいと思います

私は新卒で富士通に就職したのですが、希望職種を「インストラクター」としていました ところが就職試験の適性検査でぜんぜんできなかったのが幸い?してかかろうじて「ワープロ」部門に配属されたんですね 

私が就職したのは昭和59年です 私の年代というのは(現在44歳)コンピュータについては微妙な年頃です この年代の人を境として「コンピュータに触れるか否か」がはっきりとわかれるのです もし自分の母親がインタネをまったくしない、できないとしたら、それはまちがいなく45歳以上のお姉さま方なのであります!(笑) (ただし駐在夫人は結構インタネを駆使できる人もいたりする)

この時代はたとえば東急○ンズに導入教育(ワープロを買っていただいた企業などに使い方を教えにいく)にいったときに説明するのが「紙とえんぴつ」を使う作業との違いをメインにしていたのです 実際「挿入」キーを押すと、文字を追加できるように画面がぽっこり空くのを見たら、みなさん「おぉ〜」と身体を乗り出して感激されていた・・ そんな時代だったんですね つまりは、社会人でさえもコンピュータを自分が操作するものとして扱うのがまだ当たり前ではなかったのです 富士通社内ではワープロを使う事務の女性は当たり前でしたが、社外ではまだまだワープロが普及されつつあるという時代でした 当時富士通のワープロのOASYS(オアシス)は都庁に結構入っていたのですが、
これもまだ正式文書としては認められず、和文タイピストが庁内に現存していました 和文タイピストが危機感を覚えてワープロを習いだし始めたころでもあったのです そういう時代にすでに社会人を卒業していた人、あるいは社会人でもコンピュータ(たとえワープロであっても)と無縁だった人というのは私たちよりも上の年代の方になるわけなんですな

で、富士通のワープロ部隊というのは、別会社となっていてその会社に出向していたのですが、この会社で5年弱働いていたんですね 長いようで短い期間でしたが、普段お目にかかれない方ともおつきあいしていただけて有意義でした

そもそもコンピュータメーカーに行きたいと思ったのは、これからはコンピュータを知らなければ遅れた人間になってしまうという私にしては珍しい?先見の明みたいなものがあったんですな 結果として機械音痴の私としては正解でした 

だいたい、私の家も機械音痴の家で、たとえば私が小学校のときはまだ洗濯機は写真にありますような、一層式(つまり洗うところしかない)に手回しでローラーに洗濯物をはさんで絞る(ローラーから出てきた洗濯物はするめのようにぺちゃんこになってでてきたので子供としてはこれがとても面白かったです)ものでありました しかーし!隣のおばさまの家にはちゃんと二層式の洗濯機もあったりして、ローラー式ではどうしても水着の水分がとれないため、脱水機を借りにいっていたほどで・・我が家は家電の新製品に疎い家だったのでありました!(笑)

だいたい私が大学生になったときに(昭和55年)、千葉にテニス合宿にいって全自動洗濯機をはじめてみたときに、それまで二層式を全自動と信じていた私にはギャビーン!世の中にはこんな便利なものがあるんだぁ・・と多少なりともショックを受けたことがあったりもした 大学生のときにはCDが出回り始めたのですが、私は就職してから先輩の家に遊びにいったときに先輩がテレビから番組を録画しているというのをみて、おぉ〜すごい高度なことができる家なんだぁ・・ と感心するほど機械に疎い生活をしていたのでした

大学生になってなにか資格を持とうと決めたのですが、まず英文タイプライターを買ってきた覚えがあります 英文タイプといえばオリベッティ! 確かレッテラなんとかという機種を使っていましたが・・ もちろん電動ではありません!(笑)

バイトで稼いだなけなしのお金で、買う場所もわからず、神田神保町の事務機屋さんでゲットし、神田外語学院に、これまた自費で通って必死で練習しました ガタンガタンバターンとキーをタイプする音が家中に響き、当時器用だった私の指先はどんどんブラインドタッチできるようにはなっていったものの、腱鞘炎の一歩手前までになってしまって指をなでなでやっていたものです ほんと英文タイプって重いですよね〜 ピアノの鍵盤がすっかり軽くなってしまった覚えがあります 確か4万円ぐらいしたものだったと覚えていますが・・・ インタネで探しても同じ機種は出てきませんねぇ・・ 寂しい限りでございます^^;

この英文タイプの習得はとてもためになりました 実は就職してからは富士通のワープロの専門部隊は「親指シフト」という特殊な配列をマスターするのですが、新人研修のときに英文タイプをやっていた私としてはかなり苦しんだのですが、結果的に二種類のキーボードをブラインドタッチできるようになりました 今は親指シフトからは遠ざかりすっかりJIS配列になってしまっていますが・・ ときどき頭の中で親指シフト配列を思い出しながら、ひざの上でキーをたたいたりする真似をして忘れてはいないだろうかとチェックしたりしてますが・・・親指シフトは人間工学的に作られているのがよくわかりますよぉ・・・>JISを使っていると・・ JIS配列はほんと疲れますです ハイ^^;(親指シフト配列については後ほど詳しく語りたいと思います)

ということで、とりあえず大学在学中に英文タイプ配列(つまりJIS規格の英文配列)だけは習得していたというそんな貧しい習得しかない状態でインストラクターを希望していたんですから、まぁなんというか大胆不敵というか、世の中まだまだそんな程度でも入れる時代だったんですなぁ・・・(続)
記憶っていうのはいい加減なもので(私だけかな?)大学4年間英文学コースで勉強したわりにはあっという間に英語というものを忘れてしまっているなぁ・・と実感したことをばひとつ・・

大学を卒業してからは某コンピュータメーカーにワープロのインストラクターとして勤務したのですが、それこそ出だしは英語を勉強したのは無駄ではなかったと思えることもあったりました

それは、ある会社に出向していたのですが、その会社の課長さんが突然インストラクター3人に「これ和訳してきて」と実力ためしみたいなことをされたのです

それはある講習会の記事だったのですがもちろん全部英文・・内容は思い白いもので、富士山ろくでの合宿研修の内容が書かれていていました 学生のときにT大の友人から「夏休みの宿題なんだけど訳してぇ」と頼まれたものはかなり難しくって、結局バイト先のエリート社会人の方に訳を録音してもらって書き上げた苦い経験があるだけに(苦笑)、訳する前は結構構えたのですが、なんということはない、大学での「意訳」作業が功を奏してか、すっきりと訳せたのです

当時、同期の女性で鹿児島大学英文科を卒業している才媛がいて(ほんと彼女の記憶力はすごかった!)彼女はもちろんちゃんと訳してきましたが、もうひとり先輩で青短の経営かなにかを出られた方の訳が直訳で苦労のあとが伺えるもので、それを見たときに「おぉ〜 こんな私でも大学の勉強というのは役に立っていたのだ!」と結構意外に思ったのでありました

ところが、それからさらに半年ほどたったある日、ふと電車の中の中吊り広告をみていると、当時の第一勧業銀行(現みずほ)の宝くじの広告があってそこに豚の絵が書いてあったのです そして豚は「BUY BUY」といっている・・ うーむ ぶいぶいかぁ・・ 豚ってブイブイってなくのかなぁ・・ と漠然と考えながら眺めていた時間はどれほどだったでしょうか? しばらくしてからはっと「あぁ・・ ブイブイじゃないんだ バイバイ(買う=BUY)だったんだ」と気付いたときにはあぜーーんとしてしまった こんな基本単語をもはや英語としては読まずローマ字として豚の絵にまどわされて読んでしまっていたとは・・

かようなことがあり、私はもう自分が英文科出身であることは忘れよう・・これは内緒にしておいたほうが身のためであると本気で思ったのでした

その後夫と出会ってから、なんだか外国人と接することが多くなってしまったのですが、(結婚前ですが)散々夫に会話ができない英文科卒ということで馬鹿にされてました 特に私は英語の勉強といっても書いて覚えるタイプですし、文法とか構文とかばっかりやってましたから、しゃべるのが英語なんていう意識からは程遠かった・・ これってほんと大切なこととは思いつつも、コミュニケーションとして英語をとらえる努力が皆無だった証拠ですよね〜 今も英会話は不得手ですが(おまけに覚えた単語もほぼゼロに近づく勢いで忘れている)、英会話をしたくないばかりに教員資格もとらなかった(英語で教育実習なんて拷問だぁ・・)ほどですから、まぁ・・はっきりいって何のために英文科にいったんやぁ?っていう程度の人です ハイ

ところで書いていて思ったのですが、銀行ってほんと名前がコロコロかわって難しくなってしまいましたねぇ・・(笑) 来年の1月には「東京三菱銀行」が「三菱UFJ」に変わるようですが・・ それって旧東京銀行の方、寂しく思うだろうなぁ・・  結局名前として残るのは財閥系だけじゃないかな? 三井住友だって、昔は三井銀行が太陽神戸銀行と合併して太陽神戸三井銀行となり長すぎるせいか一時「さくら銀行」になった その時点で「三井」の名前が消え去ったことが話題になったりしましたが、住友との合併でまた復活した ちなみに三井住友銀行って、順番が三井からですが、これも問題になったらしく?英語名は、sumitomo-mitsui の順番ってご存知でしたか?(笑)

まぁ・・私は駐在期間中に変わってしまったUFJがどうしてもどことどこが合併したのかわからなかったのですが、日本に戻ってきて昔幼稚園の学費の入金をしていた大和銀行がUFJに変わっていたので・・あぁ・・そっか・・っていう感じでやっと解明されたのでした 同じ様に第一勧業銀行もね^^;

ところで、銀行その他では合併しても、商社としては三井物産と住友商事って合併しませんねぇ・・ まぁ扱っている品物がぜんぜん違うからでしょうか?ときどき夫と、もしこの二社が合併したら会社の名前は何になるだろうか?と笑って話しています 組み合わせでいえば「三井住友商事」か「住友三井物産」か「三井住友物産」か・・いずれにしてもあんまりぱっとしない名前であることは間違いありませんなぁ(笑) だいたい「商事」っていうのも不思議な言葉だ・・ 「物産」だって思い浮かぶのはデパートでよくやる「物産展」だけど、そもそも物産っていう意味はなになんだろう?と思ってしまう (国語辞典をひくと「土地から産出する品物、産物」と書かれてますな) 何気に使っている言葉はかならず意味があると夫は常々言っていますが、食品関係の取引が多い三井物産としてはこの言葉は当たり前だったのかもしれませんね 思い出されるのは、ジャカルタで夫と買い物にいったときに見つけた「牡丹印」のシーチキン!これって物産が扱っているってご存知でしたか?夫は北欧に言った時に必ず牡丹印(ほんとうに缶詰に牡丹の花が書いてあったりする)を買っていたそうです・・ ヨルダンでは牡丹印は見つけることはできませんでしたが、同じシーチキンの缶詰では「GEISHA」っていうのがあって、缶詰に芸者さんの絵が描いてあったりしたのには苦笑していました こんな記憶だけははっきりと残っているというのに、英語も駐在も今はすっかり遠くになりにけり!ですな
「ロシアン・レジェンド」を観て、さらに自分のロシアに対する知識の無さを痛感したのでちょっと調べてみました^^;

ロシアという名前は元はウクライナ・ベラルーシの古い都ルーシから派生した語のようですね 私はウクライナ・ベラルーシという国は知りませんでしたが実は夫が仕事の関係でこれらの国に行っていてそのときに知りました^^; 未だにこれらの国の正確な地図上における位置はわかりませんけどね(それこそ駐在しなきゃわからないかも?)結構オリンピックなどで活躍している人もいたりして(たしかレスリング→ベラルーシ)、その国に注目してみると面白いんですけど・・ ヨルダンも駐在する前はさっぱりわからない国でしたが、行ってみると案外日本人に対して親日的だったり(ODA援助の国民への意識がかなり浸透しているため)ヨルダン国民は日本のことを小学校のときに学んだりしているのを聞いたりすると、私たち日本人の世間の狭さを感じたりするものですが・・・

で、無知で申し訳ないのですが、ロシアって、ロシアの国の中で、共和国とつく国が結構あるんですね^^; 大きく7つの連邦管区というものがあり、その中に州とか市とか共和国がさらに存在する
ご参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2
その連邦管区の中のひとつの沿ヴォルガ連邦管区の中に「タタールスタン共和国」が存在するのですね

この共和国は夫が言ったとおり、モンゴル=ハンと深いつながりがあるというのはわかりました またイスラムの中でももっともメジャーであるスンニ派(たしかヨルダンもスンニ派)とのこと・・ 余談ですがイラクは少数派であるシーア派が支配していたんですね・・・ まぁ・・ちょっと複雑そうですが、要するにモンゴル=ハンの末裔同士の王位継承にやぶれ、他国(カザンハン)を作った・・ その子孫がタタール人ということでしょうか? ふむふむ エカテリーナ2世はタタール人のイスラムを奨励していた・・というのも面白いですね 野蛮な人を改宗させ、タタールの支配下におくという施策をとったんですね なるほど〜 さすがドイツ貴族出身・・ 宗教を政治に利用していたとは・・ ^^;
ご参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BA%BA

これ以上調べると何がなんだかわからなくなるのでやめておきませう 「連邦」と聞くと、つい合衆国連邦を連想し、州がまとまって国になっているという意識になってしまいますが、ロシアの場合は、さまざまな国と、州がドッキングしている国なのだなぁ・・ということはよくわかりました^^;

タタール人の歴史は、モンゴル帝国・イヴァン4世などがキイになっているようですね こういう映画を観るのもより理解を深められていいかな? 今度探してみよっと・・・
私の傾向としてよくあることなのですが
ときどき自分がいやな人間に思えることがあります

実際に何かを失敗したとか・・ そういうことがあったときではなくってね ちょっとしたきっかけで・・

たとえば今日がそういう気分なのですが、それは最近見た夢が泥棒に入られちゃった夢だったのです それで気分的に鬱になったせいか・・ それは自分の日ごろの行いが悪いのではないか?とか、あるいは心の中で怠慢していることをやらなくっちゃいけないのにそれができてないことに対していや〜な気分になってきてね それで自己批判が始まったりするのです そういうときってありません?

大げさにいえば躁鬱傾向があるのかもしれませんけどね・・・そういう気分のときって過去のいやな出来事を思い出したり、あるいは自分がよかれと思ってしてきていること(夫に対する態度とか息子に対する自分とかね)がいっきに色あせてみえて、これで本当にいいのだろうか?っていう気分になるわけです

いいようにいえば反省しているのかもしれないけど・・下手すれば暗〜い気分・・ 

考えてみれば、こと自分のことに対しては、どちらかといえば性悪説を持っています 私はダメ人間なのだからもっとこうしなきゃいけないとかこうするべきだとかね そういう努力目標みたいなものを常に持っていたら気分的にはいい感じなのです だけど、一度落ち込むと あぁ〜あ やっぱり私って人様になにか言えるほどの人間でもなくって、あるいは、言ってることさえもなんだか机上の空論なんじゃないか?とかね

で、気を取り直して そんなことはないぞ!自分にできることだってあるはずだ・・そう・・ なにか役に立つことは見つかるはずだって・・・ そうして実際の行動はそういう方向性をもっているわけです

最近夫が寝ているときに「ねぇねぇ・・四十郎さんって大変だよね こんな私の相手しなきゃいけないんだものね ごめんねぇ」って脈絡なく話しかけたのです そうしたら寝ぼけ眼で夫は「どうしたの?うふふ・・」みたいな感じで手をなでなでしてくれたんだけどね・・この「うふふ・・」っていうところ・・やっぱり自分でもわかってんのぉ?みたいな感じがして・・それでかえって安心して寝たりする(笑) 変ですなぁ・・私って

ということで、こういうことを考え出したら寝るに限りますね 明日は(といってももう今日だけど)5時起でお弁当をつくって、林間学校にいく次男を6時には見送らなければなりません 学校までの荷物もちは長男にお任せしたんですけどね

どろぼうが入った夢を夕食のときに子供と夫の前でしたらみんな笑っていた 今日の夕食はおやじギャグ連発でとても楽しかったです 夫が一言「会社のだれだれとダレダレがしゃべっていると、ずっとオヤジギャグばっかりなんだよなぁ あれには感心する」っていうの それたとえばどんなギャグ?っていったら 「そろそろこれで名古屋です」「それじゃぁ尾張ですね」っていう調子だよ・・ っていったら子供が笑いころげてたんだけど、(次男は尾張ってなに?って首をかしげたけどね)笑い終わってから長男が「なんで名古屋でギャグになるんだよぉ」と言ったので、それも変だねぇ・・ってまた笑っていたのでありました なんだかおバカな家庭ですね(笑)
ん〜 今日初めてドラマを観たのですが・・ 
私にはイマイチでした
確かに秋葉系と思える男性に仕立て上げているし、不器用そうな男性にもしている デモ全体としてなにもかもが脚色しすぎっていう感じがして なんだか興ざめしてしまいました また、掲示板にはなかったストーリーなども交えてより電車男さんを不器用でもてない人間に仕立て上げているんだけど・・
私のイメージではもうちょっとしっかりしたところというか、結構太い面もあるような気がしてね^^; ちょっと情けなすぎっていうところ演出過剰・・

それに掲示板に参加している面々がひどすぎ(笑) いろんな人を集めているようで、これまた過剰装飾っていう感じがしてね なんだか久々にクサイ?ドラマを観てしまいました

それよりも実は夫と面白がっているのは阿川佐和子の「お見合い放浪記」(NHK)です これは結構スピード感があっておもしろい 生意気なお見合い相手にウブともいえる31歳の阿川女史が大騒ぎしていくところがなんともいえず面白いです 私はこれはかなりノンフィクションでは?と思っているのですが、実際にはお兄さんがいるのに出てこないとか・・ ちょっと変えてあるところもあるようで(夫曰くですが) それはざんね〜ん!っていう感じです
ご参考
http://www.nhk.or.jp/drama/archives/omiai/html_staff.html
まだまだお見合い相手が出てくるみたいですねぇ・・ ほんとちょっと楽しみです

こうしてTVを観て楽しめるのも、日本ならではですね ヨルダンではすっかりTVから遠のいていましたが、newsみても、あぁ・・まだこのキャスター生きていらっしゃるんだなぁ・・とか・・ 日経ビジネス(だったかな?)見ても・・ ん〜以前は結構好きだったなぁ・・とか 浦島太郎的に見つつ、日本のメディアは何をいいたいんだろう?とかね さっき何チャンネルかわからないのですが、アスベスト問題をうちやるようにロンドンからのブレア首相の生中継に躍起になっているところが見受けられましたが・・なんだかちょっとこれはばかばかしく感じられました 日本のメディアって・・・(中略 笑)ということで、なんだかnewsが疎く感じられる私になったのも、外地にいたせいかなぁ・・と思いつつ・・ なだか冷めた目でメディアに対して見るようになったのを感じます

大体そういう目になったのは、911事件のとき以降で、結構NHKってCNNのコピーだけをしていたっていう感じがして・・ね なぁんだかいやな感じ・・ という印象を持ってしまったのがきっかけ・・ CNNは完全に偏った報道をしていてヨルダン駐在者もこの番組よりBBCを見たほうがよいという意見が大多数を占めいたぐらいです 私は英語は片言なので、そんな大それた意見はいえませんが、確かにCNNを見ていると気分が悪くなってきてしまったのです 案の定 その後日本に帰ったらマスメディアに毒された母が「ビンラディンって悪魔なんだねぇ」なんて発言して・・ 私はちょっと怒ってしまった!だいたい母は教育問題にしてもすぐテレビを鵜呑みにしてしまう 若いときにはよく私たちに「自分たちは軍国教育を受けてしまっていた そのような世界観しかなかった」と被害者意識でものを言うのですが、今だって鵜呑みにする習慣抜けてないんじゃない?きっと今軍国主義に日本が戻ったら母はきっとまた洗脳されるんだろうなぁ・・ なぁんてね 思ったりしたわけです

でも、私たちも日本国を卑下する歴史観がないでもない 加害者としての立場を教え込まれてきてそう思う傾向もあった だけど少なくともインドネシア駐在を通して、そこにいる日本人駐在者の方をみて、優しさのあまりに軽くあしらわれる(メイドにさえね)ところはあっても真面目で優しい国民であるというのは自覚できた 戦後60年たっているわけですがそんなに早く国民性が変わるものでもないと思います 日本は熱しやすくって、なんだかお人よしですぐに信じてしまうっていう面が、悪いところだけクローズアップされて歴史の中で悪いもの扱いにされたまま取り残されてしまっている スキがありすぎなんでしょうね きっとね 今の私にはそう思える・・・

まぁ ちょっと話がずれてしまいましたけれど・・ みのもんたが紹介する食材を買いに走る国民が、今度はどんなことに踊らされるのかなぁ・・なぁんて 思いつつ・・ とにかく電車男は面白くなかったぞお!!

(注)
実は駐在中、夫の大学のときの先輩でNHKのディレクターをしている方から連絡をいただいて、関係者をヨルダンに送るからちょっと意見を聞きたいという取材?のようなものが入りました そのときに夫がパレスチナ問題についてNHKの偏ったところを指摘したのですが・・ それ以来NHKもちょっと視点を変えてきましたね 映画「華氏911」が出たころには日本人の意識もかなり変わってきたんじゃないかな?って ほっと安心したりもしました もちろん私の母もね^^; NHKの名誉のために一言(笑)

蒸し暑い!

2005年6月28日 閑話休題
昨日今日となんという蒸し暑さ・・さすがの私も扇風機を手放せなくなってきました 安物の扇風機を買ったためリモコンがないのにちょっとわびしさを感じつつ・・そろそろエアコン新しいの入れないと・・と思っています でもエアコン入れるとエアコン漬になってしまいそうで・・それもいやなんだなぁ・・って思っています

我が家は運良く回りに高い建物もなく、狭いマンションなりに角部屋南向き、最上階で、専用階段ではありませんが、1階あがる階段はわが家用で(1件しかない)、北側の玄関側も新聞屋さん以外は夜はだれもこない・・ よって、東側以外は3面窓窓窓!のおうちです(窓掃除がかなり大変) ですから3方面全ての窓を開放しておけば、風通しがかなりよく、夏といえどもクーラーいらずの便利なおうちなのです 唯一11年前?次男を生んだ年の夏だけは観測史上何番目かの猛暑だった年で、その年だけはさすがに除湿を夏に3回ぐらいかけたのでした よってリビングにあるクーラーはほぼお飾り物になっていて、汚れもほとんどなく(たまに洗浄の専門家にやってもらってもきれいですよといわれる始末)・・よってリモコンが壊れたぐらいで故障もなくすでに購入して15年が経過してしまっています(つまり新婚時代に買ったものでした) 

風通しがいいおうち以外にも、私がどうも閉め切ったおうちが嫌いなようで・・ クーラーいれると家中を密閉してしまいますが、冬場でも昼間は空気の入れ替えをしたいと願う私ですから・・とにかく閉めきったおうちは大嫌い・・空気がよどむというか・・苦しくなってしまうのです

対して夫は大のクーラー好き・・ アンチクーラー人間との妥協点はマイ扇風機をいつも持って移動する・・という生活をしてくれています まるでカタツムリのように・・(笑) 

このような状況下、未だにクーラーを寝室にいれないとなぁ・・と思いつつ電気屋さんには足を踏み入れることができずにいます そろそろこの湿気で家中が腐ってくるかも?

今年の夏は暑そう・・こんなにじめじめしているのに降雨量は少ないようで・・不思議な感じもするのですが・・ 日本の高温多湿の夏にヨルダン帰りはさっそく洗礼を受けつつ・・徐々に体が順応していくのを感じます もうあのすがすがしい夏(ヨルダンのね)は夢の如しです この季節だけはヨルダンが恋しいなぁ・・・
ここのところ梅雨らしい天気が続いたり暑くなったりで、日本の気候の不順さを感じている次第です ヨルダンは冬の間雨季で、3月ごろからボチボチと乾季に突入してきます それからはずうーーーと晴れ晴れ晴れになるわけで、夏の夕方なぞは日向は射すような(いや?刺すようなかな?)日差しがものすごい強烈でも日陰に入るとどんなに汗をかいたあとであってもここちよい風に包まれます スポーツクラブでテニスをしたあとにテラスで夕食をとると、もうその気分は最高!後半はよく子供たちをつれて(お勉強を一緒にしていた子供たちね)軽食をとったりトランプをして楽しんだりしたものです 当然ヨルダン人もこぞって夕方からディナーを楽しみます 空港に行く途中などでは道端でピクニック気分で夕食をとっている人たちをみかけることもしばしばでした

そして4月の後半あたりになると、ヨルダンの国花でもあるブラックアイリス(街中では見つかりませんが)を見に行った、行かないなどという話題を聞くようになります アイリスですからまぁ菖蒲ということになりますが、黒というよりは濃紺でしかもまだらに白い斑点があるんですね 初めて写真でみたときには・・これがブラックアイリスかぁ・・と感激したりしました ちなみに確か大使館かどこかの奥様の会はブラックアイリスとか命名されていたように思います ジャカルタではハイビスカスというテニスクラブがあったり・・花の名前というのはいろんなところで使われているんだなぁ・・って改めて思いました

ということで?(笑)今日はなんでもない日、なんにも予定がない日でしたので、通常の家事やクリーニングをとりにいったり、イトーヨーカドーに次男のドッジボール用のシューズを買いにいったりしてました

そうそう、次男が小学校での特別クラブ、毎朝と毎夕にあるのですが(毎日ね)サッカークラブに入りました 長男は結構このクラブが厳しい!って嘆いていましたけど、身体も大きくなってきた次男、ヨルダンでなまった身体を鍛えてほしいものです 当然遊ぶ時間がなくなって夕方帰宅してからは時間の有効利用が問われるようになってきます しばらく見てあげてなかった勉強(いやがるので)・・・勉強をしたくない次男を今日からは食卓で管理?するようにしました 同時に私もベルマークの整理なぞに勤しんでね ベルマークってほんと地道な作業ですなぁ・・

あぁ・・そうそう、ベルマークをやっていて情けなくなったのは、小さなベルマークがちょっと見づらくなってきてしまったこと・・とくにロッテのガムについているベルマークは極小でめがねをかけているとよーーく見ないと点数を間違えてしまいそうになります 無論コンタクトなどご法度・・ コンタクトはワンデイコンタクトですが、以前駐在用に多量にストックしてあったものの度があわなくなってきたようで(多分乱視が進んでいるため)、以前長男のときに学級員をやっていたころにベルマーク整理していたときと比較して不便が多くなったなぁ・・と改めて歳を痛感してしまいました
CAPのことで思い出しましてしまったので少し参考程度に書きたいと思います あくまで防止という意味でね^^;

最初にチカンに会ったのはたしか小学校6年のころでした 私が育った大阪のM市というところは閑静な住宅街で歩いていてもとても静かで風光明媚で素敵なところなのですが・・これが曲者で結構人気(ひとけ)がなかったりします で、私が何度かあった(同一人物)チカンというのは、かならず小雨の日に出没するんですね 雨が降ってくるとますます人気がなくなりますし、なにしろ音や声が雨音で消されてしまう・・ジャンジャンの大降りでなくあくまで小雨ですが考えてみればおうちでも窓を閉めてしまいますよね 季節的にも真夏ではなくちょっと涼しいころの春や6月ぐらいだったように思います で、そのチカンは必ず幅の狭い道路を探すようなのですが・・(後日ウロウロしているチカンを見かけたらやはり同じようなロケーションのところにいた)そういう目立たないところで道路幅が狭いところに私は偶然いてしまったのです 最初近づいてきたときにはよくわからなかったのですが顔色がすごく悪くってなんだか尋常でない雰囲気は小学生の私にもわかったのです で、ふと見ると・・変なものが・・・もうそのときには恐怖で愕然としてしまいいわゆる「立ちすくんで」しまったのです だんだんと相手が近づいてくるというのがわかっていて逃げなきゃというのもわかっているのに足が動かない・・記憶だってあいまいになってしまってその後たしか走って逃げたのですが(運良くなにもされなかった)もう気持ち悪くってしかたなかった・・ すぐに母に言ったら(CAPではこういう連絡の仕方がもっともよいと言ってましたが)警察を呼んでくれて、母自身も現場にすぐに言ってくれたのでした

その経験から、小雨が降る日はとくに注意して歩いていたところ(たしか駆け足するようになった)やはり家の近くで同じチカンに遭遇し(相手は私に気がつかなかった)思い切り走って家に戻った記憶があります

その事件が最初だったのですがそれからはしばらくは遭わなかったのですが・・次は大学受験のために上京したときに電車の中での露出・・まぁ・・私がおのぼりさん風に見えたのかもしれませんね 今はJRとなった国鉄の京浜東北線(当時はボロボロの車両で、つり革など、皮の部分がちぎれそうになっていた 大阪の阪急電車に慣れている私からはこの汚さは耐えがたかったのですが)で座っている人がかばんで隠した一物を私にちらちら見せていた・・ そんな程度でしたから小学生のときほど心は傷つかなかったのですが・・

電車でのチカン被害は日常茶飯でしたが、やはり圧巻?は横浜です その当時新興住宅地であった緑区は1丁目あたりの世帯数が5戸程度という、新しい家とその周りには販売中の土地がいっぱい空いているという状況で、私の両親が借りていた家の周りも例外ではなく、門灯も街灯も少ない上、市ヶ尾駅から家までは徒歩20分もかかるという道のり・・ この20分は恐怖との戦いでした ほんとチカンロードと言えるほど恐ろしい頻度で出没したのですが

路上でのチカンはまず、まっすぐにしか前をみていない女性を狙うそうです 私はかなりチカンなれしていたので、とにかくふりかえりふりかえり歩く習慣がついていて(この経験からジャカルタに駐在したときに物をとられたりすることは回避できたようです)、家に帰るまで男をみたらチカンと思ったほど疑心暗鬼に満ちて過ごしていました 一度は駅から降りたとたん「今日は絶対にチカンがでそう!」という変な心持ちになってしまい、駅前の駐在所にいって「お願いです。今日はチカンに遭いそうで仕方ないのです。一緒に帰ってください!」と頼み込んだのです(笑)すごいですねぇ・・・これって税金の無駄遣い強要でしょうかね で、わりと年配のおまわりさんは私にあきれ返ってこういったのです「ということは、あなたがチカンに遭うかどうかわからないというのに、こちらはあなたのお見送りをしなきゃいけないんですか?」なあんて・・公務員的発言・・ストーカーがまだ認知されていないときですからおまわりさんは「事後の事件のみ対応」という姿勢がはっきりと出されていたのですが・・ なにせ恐怖心にかられていた私は厚顔無恥であることも構わず お願いです!お願いです! と連発したら・・ 仕方ないなぁ・・という感じで若いおまわりさんに向かって「おい!おまえ見送ってこい!」といってくれました もうそのときはハッピィ!ハッピィ!って感じで バイクをひっぱって一緒に帰ってくれるおまわりさんにご機嫌で「格闘技とか普段も練習なさっているのですか?」などと訓練の状況などをうかがったりして無事帰宅できたのでありました^^;

ところが、最悪の状況がこのあと訪れてしまった・・ それは雨ではなかったのですが、仕事の加減でどうしても夜遅くに帰宅してしまうことが続いたため、やむなく遠回りになるとわかりつつ比較的大通りから帰宅するときでした みなさん早足で戻られて、私も若かったですから一生懸命振り返り振り返りつつ帰宅していたら、ふと前を見ると20メートル先あたりに、一台の車が止まっている その車が歩道にかけて停車しているのですが、走ってきてすぐではなくしばらくとまっていたのに急にライトが消えたのです 長年の勘から「あれはきっと怪しい車に違いない」と判断し、あわてて反対側の歩道へと道路を横切った(チカンかな?と思ったら反対側の歩道に移動します そうすればチカンならついてきますから)・・その車は再度ライトをつけて、Uターンをしてくるではありませんか・・ これはもうチカンに違いない・・私にしたら初めての車でのチカン・・これは大変だ!ということで、その時点で私は猛烈な勢いで走り出したのです・・・運悪く家まではまだ700メートルはあります その自動車は猛スピードではありませんがやはり私を追いかけてくる もう心臓がバコバコして大変!大変!と、まるでティーニータイニーのように(魔女においかけられた小さな男の子の話ね)一生懸命逃げたのです でも車ですからそのうちつかまってしまうだろうとおもい、途中どこかの塀のあるアパートの中に飛び込んだ・・もう夜遅かったので、社会人でもあるし家をピンポンすることもせず、機転の利かない私は、帰宅できたというフリもせずただ車が過ぎ去ってくれるのを待っていたのです どうしよう・・どうしよう・・って思いながらね・・ で、5分くらい経過して、壁ごしに車がいないかどうかチェックして、いなかったらダッシュで家に戻ろうと思ってそってのぞいたら・・ なんと偶然にも、その車がちょうどアパートの前を通過していて、しかものろのろ運転で窓をあけてチカンがキョロキョロ私をさがして物色している顔が見えてしまった・・ 不幸中の幸いだったのは、その車の進行方向が私の家とは逆方向だったのです で、車が過ぎ去ったとたん、私は再度ダッシュで家に戻って、母に連絡し、おまわりさんを呼ぶという騒ぎになりました

あのあたりというのは企業の独身寮も多いところですが後日聞いたところによると夜に徘徊する車で「川崎」ナンバープレートのものは気をつけように・・とのことでした 確かに近隣のプレートのナンバー車というのはいかにもそれっぽいですよね

この恐怖体験にこりた私はその後原付自転車の免許をとり、バイク通勤にかえたのでありました その後妹、姉もひどい被害にあったりしてさんざんな被害家庭となったのでした

あと、田園都市線での大胆チカン攻撃も受けたりしましたが・・いやなものですね ほんと 今は女性専用通勤車両もできているようですが・・ 私もその車両乗りたかったとつくづく思います

閑話休題?

2005年6月7日 閑話休題
四十郎が帰国したとたん 当然ではありますが 若干忙しくなって参りました

考えてみればひといきつくことができていたからこそ映画もたくさん観れていたわけで・・次男が一人っ子状態であることには変わりはなくても、朝から大忙しになってしまっています

夜は何時に寝ようとも朝の時間を気にしなくてよくなったのはほんとうにありがたい 昨夜も2時に寝る前に四十郎に一声「ねぇ・・明日の朝は6時半ね」とお声がけ・・おかげで6時に起こされてしまった^^; まぁ・・ 今週はこれといったスケジュールがない代わりに雑用が多く、とくに学級委員関係はベルマークの整理、理事会の資料つくりなど些細なことが積もっている感じではあります

そうそう・・
長男が先週戻ってきたときに中間テストが悲惨だったことを嘆いていました 思わず担任の先生が入学式のあとにおっしゃった一言「帰国生は1年間は成績はひどいものです まぁ・・ お母様がたお怒りにならないでください」とおっしゃられたのを思い出してしまいました 案の定だなぁ・・
でも、進歩も見られました つくづくこう言ったのです「僕ね 今まで勉強というものをちゃんとやってきていなかったと思う」ってね やっとチミはわかったんかい!って感じでこのコメントを聞いたあとはさすがにやさしいトーンで言えました「わかったのならそれでいいじゃない?スタート地点に立ててるってことだよ」ってね 

先日T君が戻ってきたときに「やっと勉強がわかるようになってきた」と一言・・ その前に二人があったとき好対照だったのですがT君は勉強が大変だといい、長男は学校がいかに楽しいか?という話をしていたのです 中間の成績を見ることもなく二人の努力がどこに払われていたのかは・・一目瞭然ですよね

でも、外地での苦しかった思いをこの何ヶ月かで彼も発散できたのだと思います そうして現実に戻ったときに彼がどういう人間になっていくのか・・ そこはもう私なぞが手出しできないところ・・ がんばるんだよ と言いながら月曜日の朝見送るのが精一杯ですね ほんと・・ がんばれ〜!(笑)

ということで、エールを私自身にも送りつつ、今週という二度とこないときを生きていきましょう(時間はいつも二度と戻りませんけどね)
ふぅ〜 日ごろの不摂生の賜物のためか?軽い腰痛になってしまいました いたいなぁ・・

腰痛は実は学生のときに祖母の看病のために抱き上げたときからもっているのですが、大きなものとしてはジャカルタで一度歩行困難程度をしてしまって・・ それからは軽いものばかりでした 最近ずっと調子がよかったのですが・・ ひさびさに立ち上がるのに・・ いたぁぁぁいい! という状況に陥りました

というのも、すでに大きくなっている次男が昨日すこし横になっていた私の上にどさっと乗って「ソファーだぁ」と喜んでいたのですが 年寄り?にそんなことをしてはいけない と笑っていたのですが、案の定夜お風呂に入って掃除をしようと腰をかがめたとたんに、うぅ・・・・やばい! っていう状況になってしまった

翌朝(今朝ね)すぐに商船三井ロジスティックに電話して船便を延期してくれ・・って 頼み込みました 担当の女性は「それは大変です 痛くておつらいでしょう」といって 延期してくれました 助かりました ふぅ・・

それでも今日は 小学校のPTAの理事会があったりして午前中休んでから泣く泣くいってきました 歩行困難というほどでもありませんが・・ これ以上ひどくならないようにと・・ ゆっくりね^^; 健康のありがたみを感じてきた次第です

いつもは軽くこなしているいろいろなこともこういったちょっとしたことがあると急に負担感を感じてしまいます とくに最近は週末が忙しいのですかさず頭の中で予定を計算してしまって、ちょっと青ざめました

でも先ほど次男を放っておいて先に就寝しましたら、だいぶよくなり、目覚めもすっきり(4時に眼が覚めました)でしたのでほっと安心しています 

昨日はまたお天気が悪くなってきてしまって、なんだか船便搬入が心配ではありますが・・ 来週あたりがんばろうと思います

それにしても朝早く起きるっていうのもなんだか気持ちいいですねぇ・・
昨日も夕方雷雨となりましたが、今日もまた夕方に雨が降っています なんとなくこんな日は物憂げになってしまって(ついでにものぐさ?)借りてきたCDをコピーしたりしています(ジブリシリーズのサウンドトラックね「ハウルの動く城」「千と千尋の神隠し」「天空の城ラピュタ」「宮崎アニメthe best」

先週から次男は公文(国語・算数)に英語をプラスするようにしました 英語はやりたくないといっていたのですが、どうも学校の宿題が少なすぎるのです それにまだ英語をちょろちょろ使うときがあったりして・・ それから五年生ということで、月1回学校に英語の先生がきて遊ぶ時間(といっても授業だけど)があるらしくって、その授業があったときにはなんだか得意げに帰ってきたのでありました どんな感じだった?っていったら普通の話ししかしなかった・・ (普通ってなんだ?笑) それで他の友達は「ついていけない!」って言ってた というので、そう、英語知ってるっていいでしょう?っていったらまんざらいやそうじゃなかったのでチャンス到来とばかりに「公文してみない?一日2枚でいいんだからさ」と言って 同意させました

学校の勉強が大変だったらもちろんさせないのですが、毎日宿題といえば、音読だけだったり家庭科で家の手伝いをするとか、そんなことが多い・・5年生だぞお!って思ってもやっぱり全体の勉強量が少なすぎる・・ 余裕を感じてこその次のステップと思いつつ・・ これはその範疇にもならないと思ってのことですが・・ 案の定公文ではとってもほめてもらって(といっても発音だけだけど)さっそく中学校1年のG教材から入っています

先週あたりから次男はやっと集中して勉強しだしたとの公文の先生からのメールもあったりしてちょっと安心していますけど・・ まぁ・・ 放任に近い育て方ですが、毎日の学習だけはやはり習慣ですから・・習慣づけと動機付けという意味で続けさせたいと思います まぁ・・日本語が弱い子ですから英語は訓練させないとね(私がそうだったため 案外英語の単語から日本語の意味を知ったりした^^;)がんばろ〜!

オハスタによれば今週の日曜日は運動会をする小学校が700校ぐらいあるとのことですが・・ 雨にならなきゃいいですねぇ・・ 天気予報の具合をみて、私も来週頭に船便の荷物を搬入できるようにしようかなと思っています もうすっかり引っ越し荷物の整理など中断している私・・ 日本に本帰国して早や2ヶ月たった今・・・ さあて・・どうなることやら・・
たまにはこういう話題になってもいいかな?と・・ 暇でもないんだけど 家事の合間に書いてみたいと思います

今愛知万博で名物?のひとつになっているのがヨルダン館の死海(デッドシー)浮遊体験ですよね 体験者のいいブログがあったのでコピペしておきますね

http://blog.livedoor.jp/loveauty/archives/18658415.html

私たちも今回愛知万博にいってヨルダン館にも寄ってきましたがGWということですでに予約はいっぱい 階段を上がって二階に上ると、この写真のようにプカプカと気持ちよさそうに浮いている人が見えたりするのですが・・ 暗闇のなか青いライトの中で浮かんでいる姿はなんとなく気持ちよさげで、異次元に漂っているっていう感じがしました 人気があるみたいですね〜 

で、実際デッドシーに行った私たちとしては・・ デッドシーでの浮遊体験っていうよりごくあたりまえの海水浴っていう感じなんですけどね^^ ホテル(大きなところではムーベンピックホテル→私お気に入りね とマリオットホテルがあります)のお庭を下っていくとデッドシーの海岸になるのですが、結構岩場になっています 岩には塩が何センチもの厚さになってこびりついています 子供はさっそくこれらを石で割ったりして喜ぶのですが・・ ヨルダン館にはこの現物が玄関前に置いてあったと思います 私は帰国するときにヨルダン在住のお友達からこの塩の塊をお土産にいただいてきましたので、我が家でも見ることができますが・・ ヨルダン館のはちゃんと岩にこびりついたものだったので・・ こちらの方がよりデッドシーを感じることができるかも?(笑) で、この浮遊体験と同じようにみなさんプカプカ浮くのですがだいたい30分浮いたら、出ないと身に危険が迫ってきます 用意周到な人はペットボトルに飲料水をいれておいて、ときどき飲むようですが・・ まぁ そんなに長く入っているひとはいませんね ほんと 力を入れると帰ってジタバタという感じになっちゃうので、力を抜いてじっとしているというのがいいかも? ちなみにデッドシーには幼児を入れてはいけません さる女の子(幼稚園児)がハイってしまったところ、大切なところの粘膜がやられてしまったようで入ってすぐ「いたいよおお・・いたいよお・・・」と絶叫されてしまったようですよ・・

実際にはデッドシーというのは、ヨルダンとイスラエルの国境になっていて、ヨルダン側から見ると対岸がイスラエル・・ ムーベンピックの海岸線でデッキチェアに寝転びながら空をみると美しい夜空が広がっていて、一度は次男と流れ星を見ることもできました(まぁ・・首都アンマンも結構きれいで>夜空 流れ星は何度もみましたけど) 一度は、対岸のイスラエル側の空がピカピカと稲妻が走るときのように光っていたので・・あれは天気が悪いのかなぁ・・などと四十郎と話をしていたのですが、かえってみるとパレスチナ地区での虐殺などもあったようで・・もしかすると砲弾による灯りだったのかな?と 結構恐ろしい気持ちになったりもしたのでした・・

まぁ・・それはともかく、以前はこのあたりというのはイスラエルとの国境線ということでかなり警備も厳しかったようですが、今はさほどのチェックもなく入ることができます

さて、そのほかにヨルダンで有名なところと言えばやはり世界遺産である「ペトラ遺跡」ですね ここは インディージョーンズ最後の聖戦 で舞台になったところですが・・ 実際は、このシーンはごく一部の場所で、結構広いです^^ 
http://cuzco75.hp.infoseek.co.jp/syria/sindex.html

で、この写真をご覧になられると・・ヨルダンは間違いなく砂漠の国なのだろう!と思われるかもしれませんが、確かに国土の8割は砂漠ですが、死海に並行に1000メートル級の山があり、首都のアンマンはこの山のてっぺん?(といっても丘陵地帯ですよお)にあります ですからアンマンには四季があって 夏は乾季ですが、サウジなどから避暑にくるぐらいに・・ 湿度が低く日陰ならばとても気持ちよいところです

上記の方のHPの下のほうに、ワディラムというところが
ありますが、ここも 映画「アラビアのロレンス」で有名になったところで、ちょうどヨルダン館の前にいた兵士の格好をした民族衣装を着た方なんぞに会う事ができたりします ジープにのって(TOYOTAですがボロボロね)有名な箇所を走り回るツアーがあるのですが、結構子供は大喜びでした ただしここは砂漠ですから・・ 春でも暑いぐらいなので夏に行くのはやめましょう ^^; 印象的だったのは一面砂漠の荒野ではなく写真にありますように、ところどころに岩山があるのです その岩山はちょっと日本ではお目にかかれないようなすごい岩山で、地中からある日突然山がごご〜と突き出てきた・・そんな地殻変動を彷彿してしまうような・・そんな岩山で、近くで見るととても巨大で、おそろしい感じさえします その岩の隙間に入れたりするのですが・・ 地震恐怖症の私としては・・ちょっとそういうところもこわかったりする・・ 岩の隙間といえば、ペトラに入る前にものすごい長い岩の隙間(シークと呼ばれています)を歩いていくのですが・・ このペトラ遺跡は3世紀に起こった大地震のために埋もれてしまって 近代になるまで発見されなかったところだそうです それがうなずけてしまうぐらいに、すごい岩場ですよ・・ 

デッドシーだって、ここはプレートの境目でぽこんと割れてしまったような・・そんなところです 対岸に見えるイスラエルは平坦な土地ではなく、山が聳え立っているような姿をしています 一方ヨルダン側も 山々が見え(モーゼ終焉の地であるネボ山もこの近くにあります)日本のアルプスなどの光景とはことなりとにかく緑色ではない異様な山脈が広がっているのは 異国ムード満点です ちなみに死海は、海抜マイナス200メートルですから、アンマンが15度ぐらいだと、ここは夏日になって、車でたった1時間弱という距離にもかかわらずあっというまにリゾートを楽しめちゃう・・っていうところになります

ちなみに陥没したデッドシーの水は逃げ場がないため、塩分が残ってしまっている とのことですが、今はデッドシーに入ってくる水の量が減っているためこのままでは涸れてしまうそうです なぜ水量が減っているかというと、水源地あたりの水をイスラエルがとってしまっているから・・ と聞いたことがあります

まぁ・・そんなかんなでいろいろとありますが・・
あちらに駐在している方のHPで、定期更新されているものがありますのでご紹介いたします(もう何度も紹介していますが)結構おもしろいですよ この方HPでお仕事おっしゃってないので控えますが、ヨルダンである専門的なお仕事に携わっている方で・・ハンサムで知的な若者(→私からみたらね)らしいです(笑) 会ったことはありませんが知っているという人に聞きました^^;

http://www31.ocn.ne.jp/~kens_asia/

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