今、デング熱が話題になっていますが、
インドネシアに駐在しているときに、デング出血熱について、古い村でよく死亡者がでることがあり、日本人学校でお医者さんが講演会を開いた・・ということがあったので、懐かしく思い出しています。
駐在中はこのデング出血熱のことを略してデング熱といってましたが、この二つの差は大きくて、今日本で問題になっているデング熱は死には至らないという点で特にパニックになるほどではない感じ^^
http://www.nih.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/238-dengue-info.html
(デング熱とデング出血熱の違い)

ただ、もし死亡者が出たりするとデング出血熱ということになりますので、これはこわい。インドネシアでも医者に行けない貧困層の村で大発生すると死亡者が沢山でるとのことで、講演会のときにも、実際にデング出血熱になった子供の写真がOHPで出されて、この子はこの三日後になくなりました。という大変ショックな話をしておられたことも記憶しています。

熱帯でかかった病気については私もそうですが、日本では対処方法が周知されておらず、お医者さんでも理解されてない方が多いので、死亡者も出たことがあった・・・と記憶しています。デング出血熱について私が覚えている限りの注意したい事項は

1)体がだるくなり、高熱もでる
2)様々なところに皮下出血が見られる

放っておくと、そのまま死ぬ。
皮下出血は、手の平が真っ赤になってくるらしいですが、このときの確認方法があって、指で手のひらを押してみて、押した部分が白っぽくなったら皮下出血ではない。赤いままだと皮下出血しているので、急いで熱帯医学のことをわかっている医者にいったほうがいい。

ということです。講演会での死亡した女の子は白目の部分に出血が見られ、真っ赤になっていた状態でした。

インドネシアでもテニス友達がデング出血熱になりました。蚊は黒い鞄などに入り込むみたいで、彼女のテニスバッグも黒色でした。テニスをやっているときはバッグを開けっ放しにしていたようで、そこから入ったようです。
お金がある人、病院に行ける人で知識のある医者のところに行ければ大丈夫みたいです。
願わくば、今回の騒動で日本の医者が熱帯医学についてもより知識をもって対処していただければと思います。

で、ちょっと思い出した笑い話を^^
そのテニス友達(Tさん)が入院をしたときのことです。Tさんがデング出血熱になったということで心配したHさんというお友達が入院先にいったとき。
インドネシアのある病院の病室を訪ねると、入り口のところにTさんの名前があった。ところがその名前の下に「Hindu」 と書いてあったのでびっくりした。Hindu というのは、ヒンズー つまりヒンズー教徒ということなので、いつからTさんがヒンズー教徒になったんだろうと、病室に入って聞いてみたら

「それがさあ・・・熱が出てからだがすごーくだるかったときに、入院したら、宗教はなんだと言われて、パニクってたので、仏教という英語が出てこなかったので、思わず言ってしまったのがヒンズーだったのよ」

いやいや。そうですよねえ。そんなこと聞かれるとは思いませんよねーー。しかも英語で。
とりあえず彼女が回復したのでよかったよかっただったのですが、この愉快な話は忘れられません。
なぜ宗教を聞かれるかというと、食事の内容ではないか?と思われます。ヒンズー教徒なら牛は食べませんからね。イスラム教徒は豚を食べませんし。

実はインドネシアにいたときには、ひそやかにヒンズー教徒が引っ越してきたら野良犬が消えると噂されていました。噂なので確かめたことはありません。
ちなみに、インドネシアはイスラム教徒が多いのですが、そのイスラム教徒が16世紀に入ってきたときに、地元のもともとの王族が避難した先がバリ島だそうで、バリ島はヒンズー教徒の町です。
そのためか、あるいは別の民族の風習かわかりませんが、バリ島で自由な旅行にいってレストランにいくとメニューの中に

Daging Anjing  という料理を見つけるかもしれません。

Daging は肉
Anjing は犬です^^;
食べたい人だけ食べてください。

インドネシア語はすっかり忘れましたが、よく語呂で覚えてましたねーー。
東ちずると 寝る とか?
(Tidur >寝る)
飯はなし 魚はいかん 菓子は食え
(飯>nasi , 魚>ikan , お菓子>kue )
てな感じでしたねーー。よくナシゴレンっていいますけど、これですねーー。
goreng っていうのは油で揚げるじゃなかったかな? いためものもgorengですねー。
ナシゴレンはチャーハンのことですね。

インドネシア語は英語と同じような並び方ですしローマ字読みに近いので覚えやすかったですね。とはいっても、私は外国語は駄目なので、同じ駐在者の中で勉強しない人としてレッテル貼られてましたが^^;;
インドネシア語(マレー語)は日本に帰ると意外と使われていてびっくりしたりしてました。
たとえばその当時はやったウルトラマンティガの ティガは3という意味です。ですので、このウルトラマンは敵によって3つのウルトラマンに変身するタイプでした。

この語呂合わせの要領でアラビア語を覚えようとして全然失敗したことがよみがえってきます。結局、アラビア語で覚えているのは

マルハバ(こんにちは)

タクシーに乗ったときに使う
カナン(右)、キリ(左)、ドグリ(まっすぐ)、 とストップを意味する単語だけでした。今やこの5つ目も忘れております^^;;なはは

もう駐在には行かないと思いますが、
行くとしたら、アルファベットでそのまま読める言語の国がいいです。
ルーマニアとかはローマ字読みだから最高かも! ^^って勝手に思ってます^^






突然思い出したので、以下の疑問に答えることができる方を緊急募集いたします!^^;

実は、ヨルダンにいるときに、私はよく

「レモンスカッシュ プリーズ」と

喫茶店で注文していたのですが・・・・
これが結構笑えるんですが・・
まともに日本人が思っているレモンスカッシュが来た
ためしがなかった・・

まず、私の日本語的英語の発音の悪さによって
たいていは ??? 的な顔をされる

そっか・・ そういえばスカッシュっていうのは
squeezeの名詞形かな?と勝手に解釈し、もっと
「スクイーズ」に近い「スクワッシュ」といわなきゃいけない
のかなといって

「レモン スクワッシュ! プリーズ」
と言い直す そうすると、OH!!OK!などと笑いながら返事があって、待っていると

レモンを絞った液が入ったグラスと
缶に入った炭酸水(無糖)が出てくる

むむ・・自分でミックスしなきゃいけないのか・・・それに・・甘くないレモンスカッシュかぁ・・
と 思って、次に注文するときは甘いを表現する
言葉を追加しなければならないのかな・・・とふと思って
違う店で再度試したときには

「レモン スクワッシュ with シロップ プリーズ」

と言ったら、今度はめちゃくちゃ甘いレモンスカッシュになってしまいました

これらはまだいいのですが
同じように「レモン スクワッシュ プリーズ」

といったら、一度は

半分に切ったレモンとグラスと缶に入った炭酸水が出てきた・・こともあった

ん〜いろんな出し方があるもんだなぁ・・・と
笑ってしまいましたよ その後、何度もレモンスカッシュを注文しましたが、最後の方は、わざと「レモンスクワッシュ プリーズ」とだけいって、何が出てくるか楽しみにしていたりと、ふざけているだけの私なのでした あるときはミントの葉っぱがくっついてきた冷たいレモンジュースなどもあったりしましたが・・

で、ふと疑問に思ったのは、日本ではレモンスカッシュというと当たり前のように甘いレモン炭酸水と思うのですが、
それは間違った使い方なのかな・・と・・

でもまぁ・・ おばかな私はヨルダンにいるときには
その件について深く調べることはしなかったのです

で、帰国してからちょっと調べてみたところ
スカッシュという意味は、飲料という意味もあって、
つまりレモンスカッシュっていうと、レモンの飲料ってことになる模様・・・ (英)と付記されているところ、イギリスではレモンスカッシュというものが、なんらかの形で存在するのだとは思うのですが・・ さらに、外地では「ミネラルウォーター」と注文すると、必ずといっていいほど

「 With soda? 」

と聞かれます つまり水というのは炭酸水も含まれるってことで・・ レモンスカッシュっていうと、レモンの飲料だからつまりは絞ったレモンと水、絞ったレモンと炭酸水という構図になるのかな・・と

で、改めてインタネで検索かけてみたら、レモンスカッシュというのが日本人にとってなじみがあるのは、おそらく不二家のレモンスカッシュという商品をもってなのかな・・・と推測するにいたりました・・ 要するに日本人が言うところのレモンスカッシュというのは実は固有名詞・商品名としてのレモンスカッシュであり・・ 外地ではこれは一般名詞、普通名詞として存在するのかもしれない・・・とヨルダンでの経験をもって思うにいたってます

で、肝心の疑問というのは

1)外国人にとって
  「レモンスカッシュ プリーズ」と言ったら
  それは「レモンの飲み物ください」と言っていると
  判断してよいのか?
2)外国にいって、レモンスカッシュを飲みたいときには
  正確になんと言えばいいのか?

この二つであります

よく、飛行機の中で『何を飲まれますか?』といわれて
「コカコーラ プリーズ」と返事していたことがあったのですが・・・

「コ・カ・コーラを飲もうよ!」などといった宣伝(かなり古い?)で、すっかり日本人はコーラのことをコカコーラと言いますが、コーラは一般名詞で使われていても、コカという部分は、コカコーラ社のコカになって固有名詞になる つまり「コカコーラ プリーズ」っていうのは「コカコーラ社のコーラお願い」ってことで、商品を限定しているってことになります 商品名としては「コーク」も商標登録されてますので、コークといっても、コカコーラが出てくるということになるのかな・・ アテンダントによっては、コカコーラといっても通じないときがあったのですが・・ 発音が悪かったのかどうか原因は不明ですが、その後テレビの英会話の放送で、「コークといわなきゃいけないんですよ」っていっていたのをみて・・ そっか、通称コークで慣れている外国人も多いのかな?と思ったりしてました まぁ・・コーラはペプシもあるし、他にもカナダドライコーラとか森永クリームコーラとか、調べてみると聞いたこともないコーラが出てきたりして驚きでありますが・・・ 飛行機に乗って、もしスチュワーデスあるいはスチュワードが持ってきた飲み物のカートにペプシコーラの缶しかのっていなかったら・・ ちゃんと「ペプシコーラ プリーズ」って言わないと・・ 「コカコーラ(コーク)プリーズ」なんていうと 「オー コカコーラありませーん!」とか言われてしまうんでしょうなぁ・・ いや・・もしかすると日本人通の人は「日本人はコーラをなんでもコカコーラと言う」と理解していて、ちゃんとペプシを出すかもしれないし、あるいはきちんとした性格の人は「ペプシでも構いませんか?」と断りを入れて・・ 英会話の苦手な日本人だとそこでパニックになってしまって・・お互いが??状態になるといったおもしろい展開があるかもしれない・・あるいは勉強不足なアテンダントは、コカコーラという返事があるとは想像していないため、まったく違う言葉に取り間違えて、コーヒーなんかを出すかもしれない・・ などとまたおばかな妄想をしたりしています 

まぁ・・コーラの場合は商品名としてのコカコーラ(ないしコーク)なんだと思えばいいのですが・・ レモンスカッシュはいったいどうなんだろう?とふと考えると、考えがとまらなくなるうえに、ヨルダンでの愉快な思い出を思い出すだけで・・疑問は一向に晴れないままです・・

どなたか親切で物知りで・・あるいは知らなくてもまじめに調べてくださる方・・ 教えていただけないでしょうか?(苦笑)
寝るのは惜しい!と思ってしまうこの気持ち・・・どうしようもないですなあ・・ ということで暇に任せて思い出話をば・・

ヨルダンって、イラク攻撃のときはNHKやら民放などで「イラクの西、ヨルダン(アンマン)からの中継です!)という言葉で、やや認知された国だと思うのですが・・ そのイラクの西側にあるヨルダンは、日本の国土の四分の一程度の大きさで、首都アンマンは高度900メートルの高地にあります 夏はサウジのお金持ちが避暑にくるぐらいですので・・当然ほかの湾岸(湾岸というのは、ペルシア湾岸ということです)諸国とは異なった気候で・・実は日本と同じく四季があり、気温も夏はちょっと暑く、冬はちょっと暖かい(しかも雨季になります)という感じで、雪はめったにふりません って知ってましたか?

ところが、これがまた曲者で・・ 雪が1年に一度しか降らないため、ヨルダンの人は車のチェーンというものを持たない しかも首都アンマンは、高地なのですが、とにかく坂が多く(アンマンというのは七つの丘という意味だそうです)、当然雪が降ると車はパニック状態になります

で、駐在をした最初の冬・・さっそくこの1年に一度の大雪を体験しました!大雪といっても東京に降る雪程度ですから・・日本海側のようなものではありません 降り始めたのは夕方近くで、ちょっといやな予感がしたのですが、その当時次男が小学校1年生で、アメスクに通っていたのですが、そのお迎えに、夫の会社の車を借りて(といっても有料ですが)学校に向かったのです 雪はどんどん激しくなり、携帯電話は雪による反射?のため、使えなくなってしまう有様・・ さすがに次男を無事車に乗せたのはいいのですが、最初の長い坂で車はスリップしまくって大渋滞になってしまった

で、どうしようか迷ったのですが、この分だとおそらく夫が会社から帰宅できなくなってしまうということに考えが集中してしまい(子供より夫のほうが気になるところ、夫過保護でしょうかね・・)、運転手さんに例の片言英語で

「ここで降りて歩いて自宅に行くので、会社に戻ってください」と頼みました

典型的まじめーで敬虔なイスラム教徒である運転手さんは、すごく驚いて「それはいけない」とかなんとかいってましたが、

「1時間も歩けば家に着くと思うから心配しないで」

といって、車を降りそのときに、公衆電話から(カードが必要なのですが運転手さんに借りました)夫に電話して連絡をつけて、ちょっと不安げな次男に

「大丈夫、歩こう!」

といって、二人でテクテク歩き出したのです
まぁ・・賢明な選択だったことには結果として間違いなかったのですが・・ 私はこういう体験もいいかな?と思って楽観的でした

しばらく歩いていくと、大渋滞が過ぎてちょっと車がスムーズに走っているところがあったので「おや・・ここは走っているなぁ・・」とかなんとか考えながら、次男の手を引いて、さらに歩いていくと、何台かの車が止まって

「家はどこ? 乗りなさいよ」

らしきことを言ってくれる(もちろん英語です ヨルダン人は大体の人が英語を第二外国語として使えます)
ほお・・・ 駐在前に「ヨルダン人は、古きよき時代の日本と似ている」と聞いていたのですが、こんなにも声をかけてくれるとは・・と感心しつつ、感謝しつつ、最初は断っていました

ところが、ある車が止まって、かなり熱心に「乗りなさい」コールをしてくれるので、迷ったのですが

「まぁ・・ヨルダン人の好意というものを受けてみよっかな?」

という気持ちになって(ジャカルタだったら絶対に乗りませんよ・・みなさん真似しないでくださいね!)乗せていただいたのです そうしたら、結構笑えたのですが、熱心に言ってくださったドライバーをしていたおばさんが、「自分は日本に行ったことがある」とか話をしてくれたのです ところがその話の途中に同乗している男性がその女性に向かって、おそらく

「なんで、日本人なんか乗せたんだよ」的な口調で話しかけているのです たしかそのときはアラビア語で話をしていたようですが・・ 感情をもろ外に出しながら話していたので、あぁこの男性は乗せたくなかったんだなぁ・・と・・ヨルダン人といってもまぁ、みんながみんなお人よしっていうことでもなさそうだなぁ・・と思いました で、あと20分も歩けば家というところまできてから「ありがとうございました ここからは歩けます」といっておろしてもらったのです

で、次男と一緒に「ヨルダンの人ってやさしいね」とかなんとかいいながらまたテクテクと歩いていたら、家までのわずかな距離の間も、声をかけてくれる車がいっぱいあって・・
このころにはもう、ほんと感謝と感激の気持ちでいっぱいでしたよ・・

小さい次男を連れているのがしのびなかったのか・・どうかは不明ですが、今の日本じゃ、こういうことはないでしょうね 変な言い方すればおせっかいかもしれないけど、少なくとも次男と私はとっても心温まる思いでいっぱいになりました

あるとき、運転手さんにこういわれたことがあります
「日本では、学校でヨルダンのことを学びますか?たぶんほとんど勉強しないでしょ?でもヨルダンでは小学校の教科書に日本のことがたくさん出てきますよ それは日本が第二次世界大戦後経済成長をとげ成功したということもあるし、今ヨルダンに援助をたくさんしてくれているからですよ」 

たしかに、ヨルダンに入国してからずっと、日本人だというと必ず「ウェルカム TO ジョルダン(英語読みはジョルダン)」といってもらえる それに対して結構アメリカ人には、反米感情をもろ出す人もいるみたいで(特にパレスチナ人はそうだと思う)、タクシー乗っても怒りだす人とかいるらしい(家庭教師の人が言ってたことがある 結構ヨルダン人の悪口を言っていてびっくりした) 日本人のODAはヨルダン国では非常に認知されているし、国王と天皇陛下って結構仲良しって聞いたこともあります ゆえに日本人にとってはヨルダンで暮らすというのは、比較的馴染みやすいと思っているのですが・・

それにしても、この雪の日はヨルダン人のやさしさというかフレンドリーな好意には感激したなぁ・・ 後ろ姿は何人かわからないようなコートを着ていたので、たぶん日本人だからということではなかったように思います 乗っても安心であるというのは、普段、子供が乗ってもタクシーは安全ということで推測はつきます(子供に悪いことをしようという人はあまりいない)わが子は子供だけでタクシーに乗ったのはかなり後半になってからなのですが・・ ジャカルタではタクシーも一部の会社のものしか使ってはいけないぐらいで・・ よく閉じ込められてどこかにつれていかれる事件というのを聞いたことがありました(大人の男性もです)あるときは深夜タクシーを使って(ブロックMと呼ばれるジャカルタの繁華街から乗ったタクシーですが)日本人が殺されたということもありました ジャカルタ駐在経験者としてはほんとヨルダンの治安のよさには感激ものでしたよ そういえば初めてこれから住むという自宅を見たとき、塀が低く、有刺鉄線もガラスの破片も塀についていないのをみて、ここは治安がよさそうだと思ったのを思い出したりしました

ところで、ヨルダンの雪の日には注意しなければいけないことが一つあります それは、雪の日には、国民の休日みたいになるのですが、外にうっかり出てはいけないということ・・ なぜかというと、雪でうかれたヨルダン人は、なぜか歩いている人に向かって雪球を投げてくるそうです それも、見ず知らずの人にも・・ お茶目ですけど、結構あぶないそうで・・もちろん雪の日に歩くのはこの雪球だけでなく、坂が多い土地ですから、転倒することもありえますしね・・・

私たちが、イラク攻撃で一時退避したとき、夫がヨルダンに一人いたのですが、2月のある日にどか!っと大雪が降ったそうです 当時通っていたスポーツクラブの屋根が押しつぶされてしまったぐらいの豪雪だったそうで・・ 

中東というと「暑い」イメージしかないと思いますが、ぜひ注意してTVを観てください イスラエルやシリア(つまり地中海側の中東)などでも、冬にはみな分厚いコートを着ていますよ 日本人の中東に対するイメージ(砂漠・暑い・月とか?^^)によって、コートを着ているのに、寒いんだろうな〜って思っている人は少ないんだろうなぁ・・って 私はときどきニュースを見ながら思っています 
ペルシャ更紗を購入したところで・・・

以前、この小さい丸テーブルの上には、シリアのダマスカス刺繍のテーブルクロスを半分に折ってかけていたのでありました

で、このダマスカス刺繍ですが、どんなものかは下記のURLでの写真をごらんいただくとして・・・

(ダマスカス刺繍テーブルクロス)
http://www.aromagrove.com/shop/animal/index.htm

これ・・・1万円とかになっていますが、実は現地では非常に安い・・夫がシリアに行ったときに買ってきてくれたものは、1枚(ナフキンもついて)20ドルぐらいだったのです つまり2400円にもならないっていう感じね・・^^; 

実はヨルダンでのおうち(広かったなぁ〜今の家の6倍以上の広さだったものなぁ・・)のダイニングテーブルにかかっていたのでした たぶん機械織だと思いますが日本人の目には珍しく結構「どこのものかな〜?」と聞かれたりしました・・ 写真にあるような派手なものばかりではなく、我が家のテーブルには深緑に濃緑の糸で刺繍されているものとか・・シックなものもあったりします・・

大体シリアの物価ってすごく安くって、ヨルダンに駐在しているJICAの方で、奥様がシリア人の人がいて、ヨルダンの物価が高いのをみて「ヨルダン ドロボー」と嘆いておられたとか^^; 一度旅行に行ったのですが、ほんと安かったです

シリアは今はアメリカから「テロ国家」としてマークされていて、日本企業もとても少ないのですが、夫の会社の事務所があった(現在は撤退)ので、運よく旅行にいくことができました ちょっとドキドキしながらの入国(ヨルダンのアンマンからだと車で1時間で国境を越えられ、それから2時間ほどで首都ダマスカスにつきます)でしたが、中東を感じるのはヨルダンよりこちらの国のほうがずっといいですね!ヨルダン(アンマン)は日本で言えば「軽井沢」みたいなもので、こぎれいにしていて外国人もたくさん住んでいますし、高地ですから夏は涼しい・・サウジアラビアのお金持ちが避暑にくるぐらいなんですよ まぁ・・涼しいといってもサウジに比べればっていうことですけどね^^;

で、社会主義国家ということで、非常に取締りが厳しい・・あっちこっちに警察がいっぱいいて目をギラギラさせています でも日本からの支援として、ゴミ収集車が走っていたりするのがあるとなんとなくフレンドリーな気分になったりする(ゴミ収集車に日本から送られているということが書かれている) そして、町の看板には「AIWA」の製品が堂々と描かれています アラビア語で「アイワー」っていうと、電話のときなどに「ふんふん」みたいな?感じで使われたりする(YESの意味があります)のですが、この言葉と重なってシリア人にはうけてるのかな?^^; Wikipediaによると、中東ではaiwa製品はSONYよりも知名度があるって書いてありますなぁ・・・・

シリアで有名なのは、お土産としてはやっぱり「アレッポの石鹸」になるのでしょーか?あれも実は現地ではものすごく安い・・安いといっても購入するときは「キロ」単位になったりして、ちなみに日本に帰るときに10キロの石鹸を持って帰ったのですが・・これがまた、ものすごい代物で・・とてもそのままではお土産としては出せない・・ つまりは、作ったままのお姿をしていて・・(石鹸の塊を無造作に四角くきっているだけのもの)人にあげるときは、日本の100円ショップで籠をゲットして入れたり、あわ立てるためのスポンジが入っている袋に入れて差し上げたりしました^^; いくらぐらいだったかなぁ・・ キロ何百円っていう世界だと思います ハイ でも石鹸ってとてつもなく重いので、10キロ船便にのせたのが精一杯(船便はいっぱい入るけど、シリアからヨルダンに運ぶのが大変^^;)で、あっという間になくなってしまいました

(アレッポの石鹸)
http://item.rakuten.co.jp/kenkocom/a112990h/

これが800円(1個)だものな〜
ダマスカス刺繍といい、日本ってなんて高い代物になってしまうんだろう?>輸入品 まぁ・・運賃考えると仕方ないかな〜

シリアといえば、日本人がよく聞く地名としては「ゴラン高原」でありましょう ここには自衛隊が駐屯しているのですが、実は一度ヨルダンの日本語補習校で「お餅つき」を企画されたことがあって、このとき夫がシリア駐在の会社の方に頼んで、かのゴラン高原の自衛隊から「臼」と「杵(きね)」を借りてきてくれたことがありました もちろんこんなヘンテコなものだったため、国境での検査でひっかかると判断した夫は、当時の領事のTさんに頼んで同行してもらった・・といったことがありました 公務員のTさんは非常に迷惑そうだったみたいですが・・まぁ・・これも日本人社会へのお勤めってことで・・(笑)

ダマスカス刺繍は、シリアのスーク(市場)で売っていますが、うっかりするとぼられたりするかもしれませんなぁ・・日本人って世界各地でいい「カモ」にされますからねぇ・・まぁ・・20ドルではなくって40ドル!とかいわれたら、ひっかかっていると判断していいでしょう もちろん100ドル!なんて論外ですが・・きっと買う人もいるんだろうなぁ〜100ドルから80ドルにまけてもらって喜んじゃう人とかもいそう・・・

ちなみに観光名所としては
世界遺産となっている「ウマイヤドモスク」(ダマスカス)
http://www.ne.jp/asahi/traveller/tetukun/other/syria/damascus2.htm

→715年に建立された世界最古のモスクと言われています

同じく世界遺産の「パルミラ遺跡」
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cardr010.html
(NHK世界遺産の旅HPより)

旧約聖書で世界最初の殺人が行われた場所として有名な「カシオン山」
http://www.joyphoto.com/japanese/abroad/2005middleeast/syria/kassiun.html

などがあったりします・・

いろいろ見たい方は以下のHPでもどーぞ
(外務省ホームページ シリア)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/syria/index.html

一気に駐在のころを思い出してしまいました
穏やかに流れたときを振り返ると、今の忙しさは「日本の世知辛さ」なんだなぁ〜と思ってしまいます
雪の降った日に、当時小学校1年生であった次男ととぼとぼと歩いて家に向かっていたら、何台もの車が止まってくれて「乗っていきなさい」といってくれた、ヨルダンの和やかな風景が思い出になっているのも・・・すばらしい体験だったなぁ・・と・・

ひさびさに・・ ヨルダン駐在をふりかえる私・・
しみじみ・・・^^;
さて勢いづいて次の話をば・・

私事で恐縮ですが、私は「晴れ女」ではありますが、これはちょっとした「災難のがれ」運命傾向があると思っています 結構強運の持ち主だったりしてね^^;

その確信が始まったのは、実はジャカルタ駐在前のお天気からなのであります 私たちが夫とは半年遅れて駐在することになったのは1996年の冬、つまり1月から2月にかけてだったのです ジャカルタ入りは忘れもしない2月9日でしたが・・

その年の1月あたりから、本格的な引っ越し準備を始めたのですが、子供が小さかったことや初めての駐在だったこともあり、ものも多い我が家を整理するのに追われる毎日・・ 最終日近くは父にも手伝ってもらって、連日寝ずの作業が続いていたのです 計画としては、1月の中旬に千葉のマンションを全部空き家にして、それから大阪の実家に戻り、実家への挨拶やらを済ませる予定にしていました 車は親戚の方にさしあげるため、千葉の家の駐車場においておき、荷物を片付けてさっぱりと新幹線で夜大阪にもどる予定だったのですが・・・

ところが物の多い我が家・・ 船便も倉庫にいれるものも、すべて詰め込んだはずなのに、家にはガラクタが山ほど残ってる・・このままでは大阪には帰ることができない・・ 父が「こんなによくためこんだなぁ・・」とあきれながらも「もうこの時間だと新幹線はあと何時間までしかないぞ!」「おい!この時間だともう新幹線はぎりぎりだぞ!」と心配してくれていた・・ しかしついに「おい!もう新幹線の最終には間に合わんぞ!」となってしまったあたりから、父もあきらめてくれたようで「仕方ない、一緒に車で帰ろう」ということになってしまった・・

結局当時の愛車(通称ゴキブリカー)のコロナ(ハッチバック)の後ろに山ほど荷物を入れ込み、まだベビーちゃんだった次男と幼稚園児だった(なつかし〜)長男と父をのせて、寒い日夜中に出発したのでした

さすがに高速に入ってしばらくすると、連日連夜の徹夜がたたってか眠くなってしまった・・ 海老名サービスエリアで仮眠をとって、遠路大阪までの600キロ、運転しない父は私の運転を心配し、一睡もせずに話をしてくれました 途中「おい!おしりをふってるトラックには注意しろ!居眠り運転をしているかもしれないからな」という言葉を夢うつつで「あぁ・・でも私の車がおしりふってるかも〜」などとのたまっていた私を父はどういう気持ちでみていたのでしょうか〜 ごめんねぇ・・しみじみ・・

ということで、前座が長くなっておりますが、無事大阪についたのは翌日の昼・・ ほんとぶっ倒れました・・ でもふと天気予報をみてびっくり!その日大阪はいい天気だったのですが、なんと東京地方は大雪に見舞われていたのです! ぎゃびーん!よかったぁ・・ もし雪がふっていたらとても帰れなかったよぉ・・ 苦労して帰ってきてよかったね と安堵したのです その後、大阪から夫の実家の三重県に移動する日、この日が車を使う最後の日だったのですが・・ この日も昼あたりから、ぼちぼちと天気があやしくなってきたのですが、まさに私たちのあとに、雪が追いかけてくるといった按配で、ギリギリセーフ・・ 帰りは電車でしたから・・問題はありませんでしたが・・ その後大阪にもどり、いざジャカルタへ!成田に向かいひといきつき、無事ジャカルタについたのはよかったのですが・・

その夜の出来事・・ ジャカルタのジャラン(通りという意味)エルランガ(固有名詞)の家は、平屋で広いとはいえ、屋根は安普請・・ で、つかれきった私が寝ようとしたところ、ものすごい雨と雷・・ 一度寝たら起きないという私も、平屋の雷には参ってしまった(私は地震・雷・火事の順番でこわいです) もう恐怖におののいて、疲れもかさなって「私はなんというところにきたんだ〜 こんなところでこれから先何年も暮らさなきゃいけないなんて悲惨だぁ・・・」とショックを受けておりました 翌朝起きてみたら・・ 今度は新聞やニュースでジャカルタが80年ぶりの大雨に見舞われたという報道をしているではありませんか! ここの雨は半端ではありませんので、通常の雨でも道路は冠水し、あちこちで立ち往生する車もみられたりするのですが・・ 80年ぶりの大雨とあって、当時はまだ高速道路が完成していなかったため、空港にいく道はすべて冠水 後日、お茶会などで、この被害状況を聞いてあぜーんとしてしまったという事件?でありました

まぁ・・こんなふうにジャカルタの駐在は始まって、案の定、「はじめよければ終りよし」とは逆の「はじめ悪ければ終りも悪い」という結論になり、大暴動の前に私たちは本帰国することになりました 同じ会社の方はこの騒動に巻き込まれ、当時は自衛隊の艦艇がマレー沖に配備されたほどの騒ぎでしたが、ジャカルタ駐在者がこぞって飛行機に乗って帰ってこられたのを報道でみたとき・・ なんだか申し訳ない気持ちになったりもしました

かように、災害や人的被害にも遭わずにいられる晴れ女の私って・・結構難逃れの傾向があったりするかも〜 と思いつつも、地震恐怖症、高所恐怖症だったりするのは結局難逃れをする人であるのかもしれませんねぇ・・(笑) 

ちなみに、私は大阪出身ですが、阪神淡路大震災のときは千葉にいましたし(大阪北部に住んでいるので近くでは被害がでたりした)、ヨルダンで計画されていたアメリカ大使館テロ事件(未遂)が発覚したときも、家族はヨルダンにいましたが、私は手術のため日本に帰国中でありました おまけに今回のヨルダンのテロ事件も私たちの本帰国後にありましたから・・ 

つまり「私の通ったあとは災難・災害がある」という運命を背負っているっていうことですかね〜 あぁ こわい・・ みなさん くれぐれも私のストーカーにはならないように・・ きっと悪いことがおこりますよぉ(自爆)
暇に任せて思い出した話をひとつ・・

実は、以前にも書きましたが私は晴れ女を自負しています これって単なる自分へのこだわり?でなはく、人はなんらかの運命というか偶然を背負っているんじゃないか?という運命論みたいなものをひそかに持っているのです

で、ジャカルタで知り合った先輩(同じ会社の奥様)仮にサリーちゃんといたしましょうか(時代を感じさせる設定) サリーちゃんも実は運命論者で私にしみじみ話をしてくれたことがあります

それは、ジャカルタがまだスハルト大統領政権時代だったころのことです スハルト政権は安定しているかのように見せかけているハリボテ政権だったため、その圧制に耐えられらなくなった市民による暴動が起きるというのが結構度重なるようになってきたころの(ちなみに私が駐在したあたりが、スハルト政権の末期でした 駐在期間が2年と短かったのは大暴動の気配を感じて任期途中での本帰国だったのです)こと・・ とつぜん「米騒動」なるものがおこったのです 詳しい経緯は忘れましたが(笑)、金持ちによる食糧の備蓄がひそやかにうわさされたため、お米の買占めが始まったのです 情報交換に長けている日本人も、例外なくこの情報を察知し、お米を買いに走って、日々のお茶会ではどこどこで買っておいたわよ〜、どこどこではすごいことになっていたわ、ここではそんなでもなかったわよ などお米のことで話題がもちきりになったことがあります

 そのときサリーちゃんがつくづくおっしゃったのです「実は私日本でも米騒動にあっているのよね」そうなのです たしか1993年という年は大凶作の年で、急遽タイ米が輸入されそのお米が日本人の口に合わなくて、不満だらけの日本人に対してタイ国が遺憾の意を表わした・・ といったようなことがありました 翌年も確かひきずっていたと思いますが・・ 
(関連記事)
http://www.mekong.ne.jp/linkage/thairice.htm

そして、実は私がジャカルタ駐在したときは1996年で、その話をきいたのはその年だったのです サリーちゃんがおっしゃっていた米騒動は1993年時のことではなく、たしかその後に「大阪」で起こった米騒動のことだったと記憶しているのですが・・(ここのところ定かではありません)彼女はお米をゲットするために走り回って大変だったそうです たしかに大阪は大変そうだ!(笑) で、ジャカルタにきたらまた米騒動が起こった いさかかげんなりしながらも彼女はこうおっしゃられた「私って行く先々で米騒動に巻き込まれるのよね〜」

そうそう これこれ!(笑)
この感覚ってだれしもひとつやふたつ持っていませんか?「私がいくといつもこうなっちゃうのよね」「私って、もしかすると○○を呼び込んじゃう人なのかも?」これって偏狭な心の持ち主の私としては、かなり「真実」だったりするかも〜と思ったりしています なぜか「強運の持ち主」だったり、いくところで災難に遭う「不運の人」・・ 人には運命というものがある 避けようとしても避けられない運命・・ 死ぬ時期が閻魔帳に記載されているように、その人の運命だってあらかじめ決められているものではないか? ってね・・まぁ・・できればよい方向の運命を持ちたいものですけど^^;

日本のTVで「アンビリーバブル」的なものがよく放映されますが、先日も超ラッキーな男の話をしてました 彼はバスケットを部活でやっていた程度の男性で、定職につけない貧困層の黒人男性なのですが、ある日だれかにもらったバスケットボールの試合のチケットをもって会場にいった・・その試合の前に行われるエキシビション?かなにかで、素人がロングシュートを試みゴールを決めたら大金が手に入るというものに挑戦でき、見事シュートを決めたのです!シュートをさせてもらえるのも偶然だったし、入ったのも偶然で彼は一躍大金持ちになり、はたまた有名人にもなった・・

こんな話を聞くと「そうそう!これこれ!(笑) やっぱり人には持って生まれた運命があるのよ!」

ゆえに運命論者はその運命に甘んじることをよしとしていますので、あんまり人の幸福をうらやんだりはしません あるいは、能力のある人をねたんだりといった浅ましいこともしません(笑) ただ遠い目で、彼らの背負っているものを見ているだけ・・ただし「近い目」でみることはありますね 子供ももちろん彼らの運命を背負っている だから一緒に勉強していても、伸びていく子をみると「おぉ〜 かれはこのまままっすぐに学力を伸ばしていける運命をもっているかも?将来社会を背負って立つ人間としての運命が待っているなら、私はそれに対して貢献できているかもしれない〜」などとお気楽に思ってしまうわけです だからヨルダンでの子供との勉強会も苦にならなかったのかなぁ・・と思ったりもします

でもよくよく考えてみれば、私は晴れ女であること以外はとくになんの運命も感じないため(笑)、それは悪く言えば欲がなくって、しかも下手すれば「敗戦主義者」かもしれませんねぇ・・^^; 
暇なので?日ごろ友達と話していた笑い話をば・・

親友とは社宅が一緒でした つまり夫同士は同じ会社ってことで・・ そこで知り合ったのですが子育てなどを通して意気投合してマンションも隣のマンションを買ってくれて、ずっと仲良くしているわけですが・・ 私たちがインドネシアに駐在しているとき、彼女たちは一歩さきにベネズエラ(南米ね 首都カラカス)に駐在していて、たまたま同時期に本帰国してお互いの駐在地での出来事を話して大笑いしておりました

ジャカルタでもいろいろとありましたが、ベネズエラもすごかったなぁ・・ まぁ・・ 若いころに後進国にいくと、夫はともかく専業主婦が付き合うのは結構下層階級が多いですから(メイドとかその他)面白話もいっぱい出てくるのは必然なのですが・・

ということでベネズエラでの「ガス爆発事件」をば・・
駐在でよくある「お茶会」(有閑マダムたちが友人宅でお茶をしていろんな話をしたりする、外出ができにくい治安状況の悪い国での日常における楽しみのひとつ)をしていたとき、たまたま主催者の家の方(日本人)が、ガスの調子が悪くサービスの方に来てもらってメンテをしてもらっていたときのこと・・ ある程度修理ができたらしくそのサービスのおっちゃん(失礼!おっちゃんかどうかは定かではありませんが)が、「ためしにガスをつけてみる」といってライターを取り出したらしいのです お茶会で和んでいた奥様方はちょっと不安になり「それは危険だからやめたほうがいい」といったのですが、当のおっちゃん本人は「大丈夫!大丈夫!」(→このフレーズ後進国の人は結構容易に使いますなぁ・・)といって火をつけようとしたらしいのです で、おそろしくなった奥様方は「ちょっとまって」といって、別の部屋に退去したらしい・・ それから程なく案の定?「バカーン!」という音がして、見事におっちゃんはガス爆発を引き起こしてしまった・・ 幸い大怪我にはなっていなかったらしいのですががその部屋は大破したとのこと・・ なんだか笑えるような、教訓になるような事件があったと、友人は話してくれました

似たような話がヨルダンでもありました
それは奥様本人が事故にあった話なのですが・・
彼女はある日、ケーキを作ろうと(たしかそうだったような・・)して、ガスオーブンをセットしたのです 点火作業をしてから、準備できたケーキの生地をオーブンに入れようとして、腰をかがめてオーブンを開けたとたんに「ボン!」であります

幸いにも彼女の皮膚が焼けてしまうというようなことではなかったのですが・・ どんなふうに爆風が飛んできたのかそのカラクリはわかりませんが、彼女の場合、顔の一部が軽く焼けてしまった その箇所が、なんと「髪の毛(おでこの上あたり)」と「眉毛」だったのです! しばらく彼女は外出ができず、夫にもかなり同情される日々を過ごすことを余儀なくされたと・・ 私が駐在する前に起こった事件をしみじみ語ってくれたのでありました

いろいろありますよね ほんと一歩誤れば大事故になりかねないものばかりで・・(実際大事故もあったりしますしね)外地にいくと危機管理のない日本人はちょっとは安全に対する意識が高まっているんじゃないかなぁ・・

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