少し日は経ちましたが、1.21に33周年!
二人でずいぶんと続いたねー!と言いながら、船津屋さんでランチしました!
もう何度か書いたかもしれませんが、結婚にいたるまでの経緯を少し書きます。
夫さんと初めてデートしたのは、1987年の12月だったと思います。ボート部の先輩ご夫妻の仲立ちで、半分お見合いみたいな感じで新宿の五味八珍だったかな?そういう名前の焼き鳥屋さんで初めて会ったのです。そのあと新宿京王プラザホテルの最上階のラウンジにいき、フルーツプレート食べたかな?笑
私はその頃は独り身で、長く付き合っていた人との交際を親に反対され、結局は破局した!という状況でした。が、長かった分、最後のほうでもう心の踏ん切りがついていたので、切り替えは早かったです。もちろんしばらくはウジウジしてましたが。なにせまだ27歳でしたが、30になってしまうとやばい!早くお相手を見つけないと!という感じもしてました。誰に言われるでもなく。結婚願望というより、独立したい。という気持ちと新しい家族への期待みたいなものかなあ。笑
あのころの自分は恐れ知らずでしたよ。今振り返ってみたら。
姉がお見合いでことごとく失敗していたので、私は一人目から真剣に!と思ってました。しかし、初回は、スケジュール確認の不足のため、私が一週間後だと思い込んでしまい、夫さんを雪の中かなり待ちぼうけさせ、私は会社関係の集まりで外泊しており、おまけにその時は三鷹に一人暮らししていていて、電話なども無かったので、山から降りて帰宅したら、電報がきていて判明した!というかなり焦る状況でした!
思い起こしてみても時代だなあって。
それで仕切り直しで、新宿で会ったのです。
夫さんは、そんなこともあったので、さして私のことは気に入って無かったかもね。私は父が気に入っていた夫さんがどんな人だろう?と思って、昔の記憶を辿って、たしか、ボート部の資料、東大戦のパンフレットとかでみた同じ苗字の方を思い浮かべてたのが、送られてきた写真が異なる方だったので、んー、どんな人だったかなあ。なんて感じで新宿の改札口で会ったら、それがまたなんというか、刑事コロンボ風な人で、結構それは点数高かったのですよ。笑
若いのにお父さん的なね。
でお付き合いしてまあ三ヶ月ぐらいには婚約しました。それが春だったかなあ。仲介してくださったボート部の父の後輩であり、夫さんの先輩である方の知っているお店、ビストロオヂという、一軒家で借り切りのお店、荻窪にありますが、そこではじめて夫さんの親ともご対面でした。ちょっと値踏みされた感があったり、違和感ありましたが、まあこんなものかなあ。みたいな?
仲良しのご夫婦であることが、もっとも魅力でしたので、その点は将来への保険みたいなものをいただいたように思ってました。ここ、わたしには大事だったのです。
今考えても、結婚って博打みたいなもので、ほんとどうなるかわからないですけど、やはり最後の相手の親をみて最終判断というのはとても大事だと今も強く思います。屋台骨がしっかりとしている家庭で育ったひとは、親の姿を見て毎日の平和な生活をしっているのですから。夫婦が仲良しでも子育て通して色々あるもんです。
それに二人揃って立ち向かっていける土台を持っている人が大事ということを意識していた若い私の判断は間違いなかったように思います。もちろん反面教師から学んだことです。
それで、婚約期間は長くて、1988年の春から翌年の1.21の結婚にいたるまで、まあ無事に婚約破棄などには至らず、過ごせました。色々あったけど。
で、結婚してから七月ごろに妊娠がわかり、私も仕事をしていたのですが、9月には退職。翌年3月出産でした。それが長男です。
結婚してから、船橋の社宅にはいったのですが、妊娠期間中に、妊婦さんグループができてある中にいれてもらい、その中にNちゃんたちがいて、それぞれ夫さんが仕事でいない状況で、しかも関西あたりから上京してきているという同じような境遇だったので、すぐに仲良しになって、そのお付き合いがいまも続いているんですね。長くお付き合いしてもらってます。改めてありがと!iさんもTーさんも!
で、出産したのは1990.3で、そのころはバブルの終わったころで、私たち、もう少し待てばよかったのですが、新居を手に入れないと!と焦っていたんですね。今、長男夫婦がそんな感じがみうけられるんぇすが、私たちはそのときやめておけば、高いローンを背負うことなかったのですが。、、
しかし、ローンを背負うというのは、特に夫さんにとって、もう会社から離れることはできないと、覚悟みたいなものができたキッカケになったみたいです。
ローンがなければ、というか、家を買わずに駐在にいっていたら、どうなったか?と考えるとそれはそれで友人との関係がどうなっていたか?と考えると、やはり買った方がわたしは良かった。つまりは、わたしたちが家を買ったあとすぐ近所にNちゃん、少し離れたところにIさんがマンションを買ったので、それぞれが駐在になって日本から離れても、また帰ってきたら、同じ千葉なのですくま会える!という状況だぅたのて、寂しさもなく、行ったり来たりできたんですね。みなさん、それぞれに柔軟性がある方々だから、たとえ遠くに離れていても会えたとは思いますが、特にNちゃんとは、二人でその後たくさん時間を共にしてきたので、その点本当に良かったと言えます。しみじみ。
で、まあこんな感じで、夫さんフィンランドへの長期出張(一年ぐらいですが、三ヶ月に一度しか帰ってこない生活)、インドネシア、ヨルダンと2回の駐在と、7年にわたる夫さんのヨルダン単身赴任をのりこえて幾星霜。フィンランドの長期出張のときに次男ができて、1994年に出産して、インドネシア駐在のとき1歳二ヶ月の乳児と幼稚園児をかかえて、今でいうワンオペ?で飛行機に乗っていったりね。
大使館の方の引っ越しとは異なり、民間の企業の駐在は、まず夫さんが先に仕事に慣れるというのが原則で一ヶ月以上経たないと家族はいけないのです。ですので、銃後の母状態がしばらくつづき、その間に引っ越し、パスポートとりにいったり、車処分したりと、国内なら残しておけるものも外地なので何一つ残してはおけないものばかりで。インドネシアのときは車の処分と家を賃貸にしたりと、かなり色々しなければならなかったです。父がひとこと「夫くんや夫くんのご実家はなんにもしないんだな」と呟いていたのを苦笑いしながら聞いたことがあります。でもこれは事実ではありますが、夫さんは夫さんで駐在先で学校の準備したり、家族を迎えるある程度のことはしているのです。
一方、大使館などは同時赴任なので、妻子供の面倒は、駐在先にいる奥様方に全面的にお世話になることになります。まあ、どっちがいいかですね。夫側のストレスとか考えると民間方式の方がよいかもね。
ということで、引っ越し大変だったし、それ以上に子育ても色々あったなあと。
あとのイベントは些細なことから大きなことまで、全部が、苦難は忘れてよい思い出になってます。いやもう全てが今ある私たちの歴史になっているから、重みがあることかもしれないです。
そんな感じの私たちでしたが、今はかわいい孫ちゃんもいるし子供二人は無事にちゃんと独立してくれているし。やはり気持ち的には幸福感に満たされています。
だから二人で小さなお祝いをすると、なんとなく嬉しいのです。
積み重ねてきたものは小さいものばかりかもしれませんが、なんていうか、部活のような、共同作業をやり終えたというかね。達成感があります。
という感じで
地元の船津屋さんというレストランでランチいただきました。
予約時に結婚記念日と、用途をかいておいたら、最後のデザートのお皿に
Happy Aniversary!
とチョコレートで書いてあって、心遣いが嬉しかったです。
そのあとわたしだけ、四日市の近鉄デパートに電車でいき、
おばさまのお見舞い、
遠い父の知人のおばさまへ、お供えのお菓子
四国の山の業者さんに差し入れのお菓子
を買ってきました。電車は久しぶりでしたがらこのところのコロナ、オミクロン株の爆発的流行のため、用心して乗りましたが、マスクしない人もいたりで、車では感じない恐怖も体験してきましたよ。
翌日までに、おばさま方に手紙をしっかり書いて、宅配にして、翌日夫さんゴルフ練習の帰りに送りました。久しぶりのお手紙だったので、下書きをしてしまいました。いつもおもいますが、手紙ってほんと大変な作業ですね。わたしは特に長く書いてしまう傾向があるので。
気分的はさっぱりしましたが、生活的には、今は超早起きで、昼間に不定期に仮眠とるという、相変わらず変な生活パターンで、やや身体はお疲れ気味みたいです。そのため日記の更新も遅れてしまいました。
寒い日が続いていてエアコンをつけないため、ソファーに敷いた電気毛布の上から用事以外は抜けられないのも少しよくないかなあ。
そのため隙があれば刺繍刺繍しています!
二人でずいぶんと続いたねー!と言いながら、船津屋さんでランチしました!
もう何度か書いたかもしれませんが、結婚にいたるまでの経緯を少し書きます。
夫さんと初めてデートしたのは、1987年の12月だったと思います。ボート部の先輩ご夫妻の仲立ちで、半分お見合いみたいな感じで新宿の五味八珍だったかな?そういう名前の焼き鳥屋さんで初めて会ったのです。そのあと新宿京王プラザホテルの最上階のラウンジにいき、フルーツプレート食べたかな?笑
私はその頃は独り身で、長く付き合っていた人との交際を親に反対され、結局は破局した!という状況でした。が、長かった分、最後のほうでもう心の踏ん切りがついていたので、切り替えは早かったです。もちろんしばらくはウジウジしてましたが。なにせまだ27歳でしたが、30になってしまうとやばい!早くお相手を見つけないと!という感じもしてました。誰に言われるでもなく。結婚願望というより、独立したい。という気持ちと新しい家族への期待みたいなものかなあ。笑
あのころの自分は恐れ知らずでしたよ。今振り返ってみたら。
姉がお見合いでことごとく失敗していたので、私は一人目から真剣に!と思ってました。しかし、初回は、スケジュール確認の不足のため、私が一週間後だと思い込んでしまい、夫さんを雪の中かなり待ちぼうけさせ、私は会社関係の集まりで外泊しており、おまけにその時は三鷹に一人暮らししていていて、電話なども無かったので、山から降りて帰宅したら、電報がきていて判明した!というかなり焦る状況でした!
思い起こしてみても時代だなあって。
それで仕切り直しで、新宿で会ったのです。
夫さんは、そんなこともあったので、さして私のことは気に入って無かったかもね。私は父が気に入っていた夫さんがどんな人だろう?と思って、昔の記憶を辿って、たしか、ボート部の資料、東大戦のパンフレットとかでみた同じ苗字の方を思い浮かべてたのが、送られてきた写真が異なる方だったので、んー、どんな人だったかなあ。なんて感じで新宿の改札口で会ったら、それがまたなんというか、刑事コロンボ風な人で、結構それは点数高かったのですよ。笑
若いのにお父さん的なね。
でお付き合いしてまあ三ヶ月ぐらいには婚約しました。それが春だったかなあ。仲介してくださったボート部の父の後輩であり、夫さんの先輩である方の知っているお店、ビストロオヂという、一軒家で借り切りのお店、荻窪にありますが、そこではじめて夫さんの親ともご対面でした。ちょっと値踏みされた感があったり、違和感ありましたが、まあこんなものかなあ。みたいな?
仲良しのご夫婦であることが、もっとも魅力でしたので、その点は将来への保険みたいなものをいただいたように思ってました。ここ、わたしには大事だったのです。
今考えても、結婚って博打みたいなもので、ほんとどうなるかわからないですけど、やはり最後の相手の親をみて最終判断というのはとても大事だと今も強く思います。屋台骨がしっかりとしている家庭で育ったひとは、親の姿を見て毎日の平和な生活をしっているのですから。夫婦が仲良しでも子育て通して色々あるもんです。
それに二人揃って立ち向かっていける土台を持っている人が大事ということを意識していた若い私の判断は間違いなかったように思います。もちろん反面教師から学んだことです。
それで、婚約期間は長くて、1988年の春から翌年の1.21の結婚にいたるまで、まあ無事に婚約破棄などには至らず、過ごせました。色々あったけど。
で、結婚してから七月ごろに妊娠がわかり、私も仕事をしていたのですが、9月には退職。翌年3月出産でした。それが長男です。
結婚してから、船橋の社宅にはいったのですが、妊娠期間中に、妊婦さんグループができてある中にいれてもらい、その中にNちゃんたちがいて、それぞれ夫さんが仕事でいない状況で、しかも関西あたりから上京してきているという同じような境遇だったので、すぐに仲良しになって、そのお付き合いがいまも続いているんですね。長くお付き合いしてもらってます。改めてありがと!iさんもTーさんも!
で、出産したのは1990.3で、そのころはバブルの終わったころで、私たち、もう少し待てばよかったのですが、新居を手に入れないと!と焦っていたんですね。今、長男夫婦がそんな感じがみうけられるんぇすが、私たちはそのときやめておけば、高いローンを背負うことなかったのですが。、、
しかし、ローンを背負うというのは、特に夫さんにとって、もう会社から離れることはできないと、覚悟みたいなものができたキッカケになったみたいです。
ローンがなければ、というか、家を買わずに駐在にいっていたら、どうなったか?と考えるとそれはそれで友人との関係がどうなっていたか?と考えると、やはり買った方がわたしは良かった。つまりは、わたしたちが家を買ったあとすぐ近所にNちゃん、少し離れたところにIさんがマンションを買ったので、それぞれが駐在になって日本から離れても、また帰ってきたら、同じ千葉なのですくま会える!という状況だぅたのて、寂しさもなく、行ったり来たりできたんですね。みなさん、それぞれに柔軟性がある方々だから、たとえ遠くに離れていても会えたとは思いますが、特にNちゃんとは、二人でその後たくさん時間を共にしてきたので、その点本当に良かったと言えます。しみじみ。
で、まあこんな感じで、夫さんフィンランドへの長期出張(一年ぐらいですが、三ヶ月に一度しか帰ってこない生活)、インドネシア、ヨルダンと2回の駐在と、7年にわたる夫さんのヨルダン単身赴任をのりこえて幾星霜。フィンランドの長期出張のときに次男ができて、1994年に出産して、インドネシア駐在のとき1歳二ヶ月の乳児と幼稚園児をかかえて、今でいうワンオペ?で飛行機に乗っていったりね。
大使館の方の引っ越しとは異なり、民間の企業の駐在は、まず夫さんが先に仕事に慣れるというのが原則で一ヶ月以上経たないと家族はいけないのです。ですので、銃後の母状態がしばらくつづき、その間に引っ越し、パスポートとりにいったり、車処分したりと、国内なら残しておけるものも外地なので何一つ残してはおけないものばかりで。インドネシアのときは車の処分と家を賃貸にしたりと、かなり色々しなければならなかったです。父がひとこと「夫くんや夫くんのご実家はなんにもしないんだな」と呟いていたのを苦笑いしながら聞いたことがあります。でもこれは事実ではありますが、夫さんは夫さんで駐在先で学校の準備したり、家族を迎えるある程度のことはしているのです。
一方、大使館などは同時赴任なので、妻子供の面倒は、駐在先にいる奥様方に全面的にお世話になることになります。まあ、どっちがいいかですね。夫側のストレスとか考えると民間方式の方がよいかもね。
ということで、引っ越し大変だったし、それ以上に子育ても色々あったなあと。
あとのイベントは些細なことから大きなことまで、全部が、苦難は忘れてよい思い出になってます。いやもう全てが今ある私たちの歴史になっているから、重みがあることかもしれないです。
そんな感じの私たちでしたが、今はかわいい孫ちゃんもいるし子供二人は無事にちゃんと独立してくれているし。やはり気持ち的には幸福感に満たされています。
だから二人で小さなお祝いをすると、なんとなく嬉しいのです。
積み重ねてきたものは小さいものばかりかもしれませんが、なんていうか、部活のような、共同作業をやり終えたというかね。達成感があります。
という感じで
地元の船津屋さんというレストランでランチいただきました。
予約時に結婚記念日と、用途をかいておいたら、最後のデザートのお皿に
Happy Aniversary!
とチョコレートで書いてあって、心遣いが嬉しかったです。
そのあとわたしだけ、四日市の近鉄デパートに電車でいき、
おばさまのお見舞い、
遠い父の知人のおばさまへ、お供えのお菓子
四国の山の業者さんに差し入れのお菓子
を買ってきました。電車は久しぶりでしたがらこのところのコロナ、オミクロン株の爆発的流行のため、用心して乗りましたが、マスクしない人もいたりで、車では感じない恐怖も体験してきましたよ。
翌日までに、おばさま方に手紙をしっかり書いて、宅配にして、翌日夫さんゴルフ練習の帰りに送りました。久しぶりのお手紙だったので、下書きをしてしまいました。いつもおもいますが、手紙ってほんと大変な作業ですね。わたしは特に長く書いてしまう傾向があるので。
気分的はさっぱりしましたが、生活的には、今は超早起きで、昼間に不定期に仮眠とるという、相変わらず変な生活パターンで、やや身体はお疲れ気味みたいです。そのため日記の更新も遅れてしまいました。
寒い日が続いていてエアコンをつけないため、ソファーに敷いた電気毛布の上から用事以外は抜けられないのも少しよくないかなあ。
そのため隙があれば刺繍刺繍しています!
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