ジャカルタ日本人学校の思い出(運動会)
2020年9月2日 日常 コメント (2)これ、以前にも書いたとは思うのですが、再度書きます^^
ジャカルタ日本人学校は小学部と中学部があり、当時は合わせて1100人ぐらいの規模だったと思います。千葉の田舎の小学校が1学年2クラスぐらいだったので1学年6クラスにびっくりしましたが、中学部と合わるとすごい人数ですよね!
それが一番よくわかるのが帰宅するときの学校から出るバスです。全員バスでの送迎で、そのバスも日本にある幼稚園バスという感じではなく、観光バスの大きさで。。たしか記憶に間違いがなければ小学部だけでも60台規模だったんじゃないかな?1学年10台、1学年40人X6で240人だとして1台に24人ぐらい。まあそんな感じかな。(間違っていたらすみません)
その大団体を毎日何人かの先生が手を振って見送るのを目撃したとき、すごいなあ。。と思いました。日本ではなかなか見られない光景です。
当時の日本人学校はジャカルタの南の方にあったのですが(今は移転したようです)そこも当時確か新しく立て直しての土地で、かなり南側に遠く離れてしまった土地だったと思います。(今はきっとそこも開拓されていることでしょうね)
特別なイベントがない限りはそんなには行くこともなかったのですが、運動会はその特別なイベントで^^
運動会は特に中学部の生徒にとってはかなり負担になると聞いていました。というのも、小学部の面倒もすべてみての企画を考えなければならないので。
全体を4つに分割、色が4つに分かれます。そのグループに分かれてそれぞれ応援団を作って、リーダーが同じグループのすべての学年の子たちの面倒を見る感じです。具体的には私の子は中学生はいなかったし、中学生のお子さんを持つ方との交流が少なかったのでわからなかったですが。
当日は、席取りなどではもめませんでしたが、行ったらびっくり!だって、子供席、保護者席の周りにすでにソピール(運転手)やら現地の方、日本人学校の運動会が楽しいのを知っている人達がいっぱい! これがまた面白くって。。すごく楽しんでみてるんですよね。
実際、運動会はとても迫力があり、グループごとの看板も作られ、システム的には日本と一緒で組ごとに点数が加算されていって競うんですが、なにしろ小学校1年生のかわいらしい子たちから中学生のもうしっかりとしたお姉さんお兄さんたちから全部が観れるわけで。。
あまりにグラウンドが広いため、2回目のときはキャノンのEOSを一時帰国のときにゲットしてもっていった覚えがあります。若干の望遠レンズがないとと豆粒みたいな写真になってしまったので^^;;
保護者も、主に日本人会の運動部に所属するお父さんお母さんが参加します。私もテニス部に所属していたので参加しました。おもしろかったです^^;
最も感激したのは、当時の生徒会長の最初の挨拶。大人顔負けの挨拶でわー!ブラボー!アップローズ!みたいな感じでした^^たぶんこの日記のどこかでもう少し詳しく書いていると思います。笑
私はこのときのことがとってもよかったので、またしてもヨルダンの補習校で真似したことがあります。
ヨルダンは最高でも20人ちょっとしか小学部と中学部全員でおりませんでしたし、先生は私も含めて教職の資格を持っている人はかなり少ない。そのかわりジャイカなどからのかなり頭のよい先生もいらっしゃっいましたが。(なので私は低学年専門)
年中行事、イベントとしては、年1回では遠足、日本人会でのコーラスや劇(まあ発表会になりますかね)、そしてクリスマス会などがありましたが、このクリスマス会のときに、グループ分けをし、リーダーを中学生にして、自分たちでゲームの内容を考えたり企画にかかわってもらったのです。
普段はバラバラに集まってきている感じでしたが、やはりこの行事を通して、縦社会ができました^^ リーダーはリーダーらしく成長したのがうれしかったです。なにより小さい学年の子たちがリーダーさんに声掛けを多くするようになったのをほほえましく見てました。
今は日本も同じ問題を抱えているようでしたが
昨年ヨルダンにいって補習校のことを聞いたら、すっかりシステムが変わったのもありますが、実はハーフの方が増えて、現地に住む日本人とヨルダン人とのハーフの子供たちが多くなったらしく。本来は駐在員の子のための学校と思うのですが、私立の学校なのでどこかで徐々に変わっていったのかな?
私たちのときにもハーフの子もいましたが、かなり日本語教育もご家庭内でなさっておられてました。それが今は日本語が不便な子も増えていているので、カリキュラムがはかどらず、駐在員の親が困っているみたいな話も聞きました。
つくづく自分がいたころとはまた時代も変わったんだなと。
時代が変わったといえば、
ジャカルタとヨルダンとでは5年ぐらいしか離れてないのですが駐在者の生活が変わりました。
ジャカルタのときはまだ古い?タイプの駐在で、なにかと会社の集まりで奥様方も集まり、所長夫人をトップとしていろいろな行事をこなさないといけない感じがあり、私生活にも会社の上下関係が入り込んで日本ではない体験をしました。しかし、ジャカルタには2年しかいませんでしたが徐々にメイドを使わない人が増えたり(駐在当初は現地雇用を増やさないといけないという慣習があり、メイドを雇うのが沈黙の義務みたいな感じでもありましたが)使用人を入れないことにより、子育てなどを自分たちで行う方が増え横の関係が希薄になっていった(子育てがあるから〇〇に参加できないなど)こと、さらに、所長夫人を中心として会社としてなにをするといった形が徐々に消失していったというのも聞きました。
ですので、実はヨルダンのときには所長夫人(ただしすごく小さい)だったのですが、ほかの日本人の奥様方を巻き込むことなく、自分で何もかもやったりしてました。私は外国語習得が苦手なので、貢献できるとこは日本人社会しかないなあ。。と思っていたので。パーティなどを主に家でするときも、メイドには洗い物だけを頼み、食事などは全部用意したので大変でした(一番多いときは45人ぐらいいました)。こんにゃくを一から作るのが一番苦痛でした。(ケータリングとかあまりない国だったので。自宅接待が当たり前でした。今は相当都会的になったようです。ヨルダンも)
また、当時の大使夫人がご提案として、ヨルダン婦人会を作らないか?とおっしゃったのですが、僭越ながらヨルダンのこののんびりした雰囲気をつぶさないほうがよいと思います。と反対しました。結局ほかの方も同じ考え方だったのかどうかは不明ですが、ヨルダン婦人会は発足はしませんでした。この提案は私自身は時流を考えてということと、ヨルダンののんびり感はそれはそれで大事と思ったからです。そのかわりヨルダンはお手伝いなどは日本人会からおりてきますので、有志が行ったりしてました^^
ジャカルタのときも、皆さん専業主婦でしたが婦人会に会社から二人出すというのもみなさん日本と同じようにできるだけやりたくないみたいな雰囲気があり、私は日本でも積極的にやっていたので、厚かましくやります!といって引き受けました。日本でのPTAの経験から、なんだかイヤイヤ引き受けて、やりだしたらちゃんとやるといった日本型は好まなかったのです。
日本に帰ってから、駐在中のように子供たちを家に集めて遊んでもらったりPTA活動もしましたが、そのときに感じたのは親の違いです。いろんな親がいるものだなと思ったのと同時に、やはり駐在中の親は全然違うなあ。。という。。まあ。なんというか当たり前ですが駐在している日本人は日の丸をしょっていらっしゃる方々なんだとつくづく思いましたね。
駐在先では助け合いが当たり前なんですよね。だって異国にぽん!って放りこまれ右も左もわからない状態で孤立無援だとね。今のようにインターネットがない時代だと余計にです。夫はヨルダンでの最初の駐在のときには、ヨーロッパから1日遅れてくる日経新聞をとても楽しみにしていました。二度目のときはすでに新聞は不要な感じにもなっていました。時代はほんとうに大きくかわりましたが、いずれにせよ駐在員は最初は助けてもらいながら生活になれ、新しい駐在員がきたらその人を助け、そして去っていく駐在者を次々見送り、いつの間にかベテランの仲間入りをし、そうこうしているうちに自分も日本に帰る。
子供も同様で仲良くなった友達とのお別れが数年後にはきて、また新しい友達を迎え入れる。そんな感じなので、日本にいるときとはまた違う世界観ができますね。
私は小さいときから引っ越し慣れしている人間なので、人とさよならすることには苦痛は感じないのですが、
ヨルダン駐在中に父を亡くし、そのときにはっきりと、自分の大事な人がいなくなる恐怖を覚えたのです。だから自分にとって大事な友は増やしてはいけない!という変な気持ちが出来て、今は友人は社宅時代のお友達だけ深く長くお付き合いしてもらってます。
だからよけいにジャカルタやヨルダンでの異国生活は、はるかかなたの世界になっていると同時に楽しかったことばかりが思い出されます。
ジャカルタ日本人学校は小学部と中学部があり、当時は合わせて1100人ぐらいの規模だったと思います。千葉の田舎の小学校が1学年2クラスぐらいだったので1学年6クラスにびっくりしましたが、中学部と合わるとすごい人数ですよね!
それが一番よくわかるのが帰宅するときの学校から出るバスです。全員バスでの送迎で、そのバスも日本にある幼稚園バスという感じではなく、観光バスの大きさで。。たしか記憶に間違いがなければ小学部だけでも60台規模だったんじゃないかな?1学年10台、1学年40人X6で240人だとして1台に24人ぐらい。まあそんな感じかな。(間違っていたらすみません)
その大団体を毎日何人かの先生が手を振って見送るのを目撃したとき、すごいなあ。。と思いました。日本ではなかなか見られない光景です。
当時の日本人学校はジャカルタの南の方にあったのですが(今は移転したようです)そこも当時確か新しく立て直しての土地で、かなり南側に遠く離れてしまった土地だったと思います。(今はきっとそこも開拓されていることでしょうね)
特別なイベントがない限りはそんなには行くこともなかったのですが、運動会はその特別なイベントで^^
運動会は特に中学部の生徒にとってはかなり負担になると聞いていました。というのも、小学部の面倒もすべてみての企画を考えなければならないので。
全体を4つに分割、色が4つに分かれます。そのグループに分かれてそれぞれ応援団を作って、リーダーが同じグループのすべての学年の子たちの面倒を見る感じです。具体的には私の子は中学生はいなかったし、中学生のお子さんを持つ方との交流が少なかったのでわからなかったですが。
当日は、席取りなどではもめませんでしたが、行ったらびっくり!だって、子供席、保護者席の周りにすでにソピール(運転手)やら現地の方、日本人学校の運動会が楽しいのを知っている人達がいっぱい! これがまた面白くって。。すごく楽しんでみてるんですよね。
実際、運動会はとても迫力があり、グループごとの看板も作られ、システム的には日本と一緒で組ごとに点数が加算されていって競うんですが、なにしろ小学校1年生のかわいらしい子たちから中学生のもうしっかりとしたお姉さんお兄さんたちから全部が観れるわけで。。
あまりにグラウンドが広いため、2回目のときはキャノンのEOSを一時帰国のときにゲットしてもっていった覚えがあります。若干の望遠レンズがないとと豆粒みたいな写真になってしまったので^^;;
保護者も、主に日本人会の運動部に所属するお父さんお母さんが参加します。私もテニス部に所属していたので参加しました。おもしろかったです^^;
最も感激したのは、当時の生徒会長の最初の挨拶。大人顔負けの挨拶でわー!ブラボー!アップローズ!みたいな感じでした^^たぶんこの日記のどこかでもう少し詳しく書いていると思います。笑
私はこのときのことがとってもよかったので、またしてもヨルダンの補習校で真似したことがあります。
ヨルダンは最高でも20人ちょっとしか小学部と中学部全員でおりませんでしたし、先生は私も含めて教職の資格を持っている人はかなり少ない。そのかわりジャイカなどからのかなり頭のよい先生もいらっしゃっいましたが。(なので私は低学年専門)
年中行事、イベントとしては、年1回では遠足、日本人会でのコーラスや劇(まあ発表会になりますかね)、そしてクリスマス会などがありましたが、このクリスマス会のときに、グループ分けをし、リーダーを中学生にして、自分たちでゲームの内容を考えたり企画にかかわってもらったのです。
普段はバラバラに集まってきている感じでしたが、やはりこの行事を通して、縦社会ができました^^ リーダーはリーダーらしく成長したのがうれしかったです。なにより小さい学年の子たちがリーダーさんに声掛けを多くするようになったのをほほえましく見てました。
今は日本も同じ問題を抱えているようでしたが
昨年ヨルダンにいって補習校のことを聞いたら、すっかりシステムが変わったのもありますが、実はハーフの方が増えて、現地に住む日本人とヨルダン人とのハーフの子供たちが多くなったらしく。本来は駐在員の子のための学校と思うのですが、私立の学校なのでどこかで徐々に変わっていったのかな?
私たちのときにもハーフの子もいましたが、かなり日本語教育もご家庭内でなさっておられてました。それが今は日本語が不便な子も増えていているので、カリキュラムがはかどらず、駐在員の親が困っているみたいな話も聞きました。
つくづく自分がいたころとはまた時代も変わったんだなと。
時代が変わったといえば、
ジャカルタとヨルダンとでは5年ぐらいしか離れてないのですが駐在者の生活が変わりました。
ジャカルタのときはまだ古い?タイプの駐在で、なにかと会社の集まりで奥様方も集まり、所長夫人をトップとしていろいろな行事をこなさないといけない感じがあり、私生活にも会社の上下関係が入り込んで日本ではない体験をしました。しかし、ジャカルタには2年しかいませんでしたが徐々にメイドを使わない人が増えたり(駐在当初は現地雇用を増やさないといけないという慣習があり、メイドを雇うのが沈黙の義務みたいな感じでもありましたが)使用人を入れないことにより、子育てなどを自分たちで行う方が増え横の関係が希薄になっていった(子育てがあるから〇〇に参加できないなど)こと、さらに、所長夫人を中心として会社としてなにをするといった形が徐々に消失していったというのも聞きました。
ですので、実はヨルダンのときには所長夫人(ただしすごく小さい)だったのですが、ほかの日本人の奥様方を巻き込むことなく、自分で何もかもやったりしてました。私は外国語習得が苦手なので、貢献できるとこは日本人社会しかないなあ。。と思っていたので。パーティなどを主に家でするときも、メイドには洗い物だけを頼み、食事などは全部用意したので大変でした(一番多いときは45人ぐらいいました)。こんにゃくを一から作るのが一番苦痛でした。(ケータリングとかあまりない国だったので。自宅接待が当たり前でした。今は相当都会的になったようです。ヨルダンも)
また、当時の大使夫人がご提案として、ヨルダン婦人会を作らないか?とおっしゃったのですが、僭越ながらヨルダンのこののんびりした雰囲気をつぶさないほうがよいと思います。と反対しました。結局ほかの方も同じ考え方だったのかどうかは不明ですが、ヨルダン婦人会は発足はしませんでした。この提案は私自身は時流を考えてということと、ヨルダンののんびり感はそれはそれで大事と思ったからです。そのかわりヨルダンはお手伝いなどは日本人会からおりてきますので、有志が行ったりしてました^^
ジャカルタのときも、皆さん専業主婦でしたが婦人会に会社から二人出すというのもみなさん日本と同じようにできるだけやりたくないみたいな雰囲気があり、私は日本でも積極的にやっていたので、厚かましくやります!といって引き受けました。日本でのPTAの経験から、なんだかイヤイヤ引き受けて、やりだしたらちゃんとやるといった日本型は好まなかったのです。
日本に帰ってから、駐在中のように子供たちを家に集めて遊んでもらったりPTA活動もしましたが、そのときに感じたのは親の違いです。いろんな親がいるものだなと思ったのと同時に、やはり駐在中の親は全然違うなあ。。という。。まあ。なんというか当たり前ですが駐在している日本人は日の丸をしょっていらっしゃる方々なんだとつくづく思いましたね。
駐在先では助け合いが当たり前なんですよね。だって異国にぽん!って放りこまれ右も左もわからない状態で孤立無援だとね。今のようにインターネットがない時代だと余計にです。夫はヨルダンでの最初の駐在のときには、ヨーロッパから1日遅れてくる日経新聞をとても楽しみにしていました。二度目のときはすでに新聞は不要な感じにもなっていました。時代はほんとうに大きくかわりましたが、いずれにせよ駐在員は最初は助けてもらいながら生活になれ、新しい駐在員がきたらその人を助け、そして去っていく駐在者を次々見送り、いつの間にかベテランの仲間入りをし、そうこうしているうちに自分も日本に帰る。
子供も同様で仲良くなった友達とのお別れが数年後にはきて、また新しい友達を迎え入れる。そんな感じなので、日本にいるときとはまた違う世界観ができますね。
私は小さいときから引っ越し慣れしている人間なので、人とさよならすることには苦痛は感じないのですが、
ヨルダン駐在中に父を亡くし、そのときにはっきりと、自分の大事な人がいなくなる恐怖を覚えたのです。だから自分にとって大事な友は増やしてはいけない!という変な気持ちが出来て、今は友人は社宅時代のお友達だけ深く長くお付き合いしてもらってます。
だからよけいにジャカルタやヨルダンでの異国生活は、はるかかなたの世界になっていると同時に楽しかったことばかりが思い出されます。
コメント
詳細な記述 ありがとうございます 昔の懐かしい話しですね
ブラジルの時は 日本人学校の ラジオ体操と 言うのが 現地の方に うけて うけて
凄い凄い 日本人は 子供まで キチンと 出来る と 驚かれたのを 思いましだした
ラジオ体操は日本人って感じがします!
私は昔、テニス部でラジオ体操第二を必ずしていたので(高校)、ヨルダンの補習校では金曜日だけでしたが朝は第二で身体をほぐしてました。