原付改良中なんですがすごい集中度で
リビングダイニングを占拠されているので
やむなくベッドルームで体を休めていたら
寝すぎたみたいで(笑)腰がすっかりやられてしまいました。
コルセットしたらやや動きが楽になりました。
次男はクライマックスを迎えているようで、木曜日あたりには仕上げたいといってます。成功を心から祈ってますが、実際家が作業場みたいになってるのはなんとかしたいけどまだ放置するしかないですね。

雨もすごかったので昨日はなんともできませんでした。
今日は午後から止んでくれるかな。雨。
車も洗いに行きたいし、銀行も行かないとね。
ぼやぼやしていたらもうすぐにGWで5月になっちゃいますね。

そういえば
ツイッターしているといろんな情報が入っていますね。
最近みたものでは東名高速道路の部分開通50周年とありました。
東名高速道路は父が静岡でかかわっていて(富士川町というところに住んでいました)、その工事が終わって大阪に転勤になったのが私が小学校にあがるときですので6歳かな。
今年齢が56歳ですからばっちりですね!
父の東名高速道路の工事が終わったので大阪転勤になったわけですね。
そして私たちも大阪の枚方(ひらかた)小学校に入学しました。
あのとき覚えているのは、静岡の引っ越しのとき、友人とかに見送られてバイバイしていたときに自分が号泣していたことですね。
その後たしか高校生のときに住んでいたお蔵のおうちを訪ねました。すごいところに住んでいたんだなあと。
ミカン畑の山並みとか自分の記憶に残っているものがいっぱいありました。駅に向かう川の近くを目をつぶって歩いていたら川に落ちたこともありましたっけ。
今はもう痛かっただろうことも忘れてますが。
あの当時5円で売っていたアイスが忘れられないです。三角形のビニールのようなものにオレンジ色の甘いアイス(今でいうアイスキャンディーの袋ごと凍らせたようなもの)をさきっぽのビニールを歯でかじってとって食べるものなんですね。。あれに似たものをインドネシアでみたことがあって、自分の子供たちはあのアイスは食べさせなかった(現地の人だけが食べる)のですが、私の幼少期っていうのはまだまだあやしいお菓子があった時代ですねーー。笑
それにポンという焼き菓子があって、これは今でも売ってますが、それは大阪の社宅におじちゃんが大砲みたいな機械もってお米をポン菓子に代えてくれるサービスしてくれたんですね。これがものすごい音がして。子供にとってはキャッキャもので^^何度も何度も代えにいきました。お金はいりましたが。
ポン菓子製造機
https://matome.naver.jp/odai/2142719884898156601/2142767724881621503

もう神社のお祭りで針で型抜きをしながら食べるあやしい板の飴?みたいなお菓子も見なくなりました^^
駄菓子屋さんが残っているのは奇跡だなあと、いつも思っています。

私の幼稚園時代というのは静岡での生活です。そしてそのときに作っていた東名高速道路を私は今はほとんど利用せずに新東名だけを使っています。父は新名神や新東名を見ることなく亡くなったんだなと今更ながら思います^^母があの世にいったときにちゃんと報告してくれたらいいんだけどね。ま、それも私が死んだときのお役目でしょうかね。。笑
ちなみに新東名開通は2012年4月みたいです。父が亡くなったのは2002年なので10年後なんですね。。

コメント

nophoto
五十朗
2018年4月27日1:12

集中するのはいいことです 土木屋の仕事は形に残るのでうらやましいです 私の仕事で形に残っているものはないですから 

ピーターパン in Japan
2018年4月27日3:34

目に見えない大事なものいっぱいつくってくれてますよ。思い出すのは、お弁当お運び騒動。あれ思い出すたびほっこりしますねー。

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