春分の日が近いのでお墓まいり(2箇所)いってきてお花をお供えしておきました。
お寺のお墓で気がついたのですが、あのお寺もお墓と同じときに作られたようです。水を汲む場所に石の水受け?があるんですが、そこに天保11年とかいてあるのを今日初めて発見しました^^
天保11年って1840年なので幕末にあたります。
http://www2.plala.or.jp/shyall/nenpyo/tenpou.htm
徳川家慶の時代で、次の13代将軍が、「篤姫」の夫の家定になるようなので、非常に微妙になりだした時期ですね。
このころにお寺ができ、同時にS氏の墓も作られた。きっとその当時はお墓の数も限定されていたことでしょう。今は小さな敷地に密集していますが。。
ちなみにお墓はとても小さいです。私の実家のお墓は1つの敷地に4つあってちゃんと柵で囲ってあるので「戸建」感覚ですが、ここのお寺のお墓は、「長屋」っぽいです。
なお、もう一つ夫の実家の近くにあるお墓は広々としてますが(笑)これはあと2つ作れるだけの土地が横並びにあってまだ埋まってません。
義母が「(義父母の)次男や三男用」とおっしゃってますが、浄土真宗は、墓には個人名は書かないはずなので、無駄な土地と私は思っております。ですので、一度「墓碑銘」のようなものを作って、このお墓に誰が入っているかわかるようにしてみてはいかがでしょう?といったことがありますが、チラ見されて終わりでした。
ところで何故市内に二つのお墓を作ったのかは不明ですが、新しい方は明治に作られたようなので、きっと引越しして街中よりも田舎に引っ込んでしまったのでお墓詣りも遠方になってしまったのでとりあえず近場も作っておいたのでは?と推察します。大事なときだけ街中にいったのか。。。どうなのか。。義父がなくなったとき、分骨しましたが、新しい方は骨が入るスペースがありましたが、古い方はないので、なんと墓石の上に隙間がある部分に埋め込んであるという状況^^ ほんとにこれでいいのかな?と去年思ったのですが。。江戸時代はどうしていたんでしょうね。火葬は第二次世界大戦から定着したと言われているみたいなので、土葬ですかね。とすると、あのカチコチに固まったお墓の下にはご先祖様が今も眠っていて、ひょっとして私たち踏んずけながらお参りしてるのかもしれません^^;;;;

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