長野)くも膜下出血を伴う可逆性脳血管攣(れん)縮症候群>妹の病名
2015年5月10日 日常慣れない病名が出てきました。
要するに可逆性脳血管症候群なんですが、これが不思議な病気で、
強烈な頭痛(攣縮)を引き起こしても12週ぐらいたつとその縮んだ痕跡が消えて、元のの状態に戻ってしまうというのが「可逆性」ということらしいです。
これにはさすがに合点が行きまくってしまった。
というのは自分の起こしている頭痛がこの手によってCTなどで見えてこなかったんだ!てな感じだったからです。
私が強烈な頭痛を起こしたのは2年前です。この日記が中断している時だったので、思い出せる限りで思い出します。
2013年4月
この年に次男が大学に入学。学校の近くの市に下宿させるので、3月からその準備で忙しくしていました。その間、大学に次男が入ったのでやっと夫の家の手伝いができるということで、三重にアパートを借りるべく三重にも通って探していました。
またこの年に長男が無事就職し、フレッシュマンになりました。!
2013年5月
長男が、会社がとても遠方であるので下宿をしていということで、都内でアパートを探し入居手続きを長男と行っていました。
同時並行で三重の私用のアパートも探し、ほぼ同時期に入居手続きを完了。このときから徐々に三重の親の病院行きの手伝いが始まりました。
2013年6月
義父の病院通いの手伝いのほか、義母のがんセンター通いもお手伝い。たしかこの月は3回愛知がんセンターに通いました。1回の検査に対して事前に1回、事後報告のため1回と3回! その前には大腸ガンの検査で通っていたようにも思います。
2013年7月
ずっとですが大阪と三重、千葉との往復を続けていましたが、月末に千葉に戻り、その後すぐ三重に戻り、さらにまた月末の月末に千葉にもどりヨルダンから帰国した夫を成田に迎えにいったのでした。
2013年8月
成田着した夫と共に三重に。三重では草刈りなどの手伝いを夫が主にしてくれていたのですが、一緒に手伝うことになって、虫よけのためにフル装備。虫除けのついた帽子、長袖の手袋?長靴をまとって外にでると、急に喉が渇き、頭痛が始まり、くらくらになってとても立っていられなくなり、熱中症と勘違いしてすぐに冷房のきいた家にはいり頭痛が落ち着くまでまつ。熱中症と勘違いしたまま作業はもう手伝わなかった。これが10日前後。
13日のお盆すぎて、夫と再び千葉にもどり、夫を成田に送る。その後その日に三重に戻る。
戻った日の夜中、トイレにいったら突然猛烈な頭痛に襲われる。痛くてたまらず、運転もできない状態だったので自分で救急車を呼んで病院にいく。今回の妹と同じく、頭をかかえていたいいたい!って叫んでいました。
病院では、いろいろな薬を飲んだり点滴したりしてどれで症状が安定したかはわからなかったのですが、とりあえず夜中の3時かそれぐらいには頭痛がひとまず治まったので、アパートでタクシーで戻った。
翌日、義父を病院に送らないといけないため、朝から義母を迎えて義父の通っている病院へ。今思うとほんとこのときに何事もなくてよかったのですが、この夜、再度トイレにいって激痛! ロキソニンを貰っていたのですが、もちろん効かず。。こんなに痛い痛みは実はヨルダンで1度あったのですが(たしかこれは日記にかいてあった)ちょっと耐え難い痛みですし、なにより自身でこれは異常だ!と思えるものだったので、翌日再度病院に。
1日目もそうだったのですが、CTには出血が見れらなかったということと、妹のように出血がなかったので、結局原因分からずでしたが、血圧が高くなっていることと糖尿も悪くなっていたということもあり、最終的には糖尿を中心に治療しましょうということに。
ただ、後日精査したところCTには過去にラクナ梗塞があった痕があったらしい。ヨルダンにいたときに起こったものだろうか?
この頭痛のとき、一人でアパートにいたということもあり、また家族バラバラになっていたということもあり、死んでしまったらなにもメッセージを伝えられないと思って携帯電話に遺書を書きました。後日談で笑い話として使っていますが、ほんとうにそう思ったのです。
ですから、妹が山の家で頭を押さえながら、ピーターちゃんはこのときに一人だったんだよね。ごめんね。と言ってくれていたのですが、
今はすっかり過去のことになっていますが、ほんと痛かった。。その一言。
その後私の場合は、適度な運動、食生活の管理と進めていったので、今は糖尿も影を潜め(でも投薬は続けています)頭痛に関しては約1年間はなんだか突然どきどきどきガンガンガンというのはありましたが、今は自分でも危険回避できているので自己管理が進んだと自負しています。でも昔楽しんだテニスなどはできないし、はっきりいって飛行機に乗るもの避けたいです。妹がまだ倒れていないときに、一緒にゴルフをやろうと言われましたが、それもちょっと。。。。と曖昧な返事を返すだけでした。
妹も私と同じようにこれから体調管理をして、なにも考えなくても健康であろうと過信していた生活は終息することになります。そして年相応な危険を避けながら安定した暮らしをしていくほかありません。
年をとるということはこういうことなのだなと思います。
要するに可逆性脳血管症候群なんですが、これが不思議な病気で、
強烈な頭痛(攣縮)を引き起こしても12週ぐらいたつとその縮んだ痕跡が消えて、元のの状態に戻ってしまうというのが「可逆性」ということらしいです。
これにはさすがに合点が行きまくってしまった。
というのは自分の起こしている頭痛がこの手によってCTなどで見えてこなかったんだ!てな感じだったからです。
私が強烈な頭痛を起こしたのは2年前です。この日記が中断している時だったので、思い出せる限りで思い出します。
2013年4月
この年に次男が大学に入学。学校の近くの市に下宿させるので、3月からその準備で忙しくしていました。その間、大学に次男が入ったのでやっと夫の家の手伝いができるということで、三重にアパートを借りるべく三重にも通って探していました。
またこの年に長男が無事就職し、フレッシュマンになりました。!
2013年5月
長男が、会社がとても遠方であるので下宿をしていということで、都内でアパートを探し入居手続きを長男と行っていました。
同時並行で三重の私用のアパートも探し、ほぼ同時期に入居手続きを完了。このときから徐々に三重の親の病院行きの手伝いが始まりました。
2013年6月
義父の病院通いの手伝いのほか、義母のがんセンター通いもお手伝い。たしかこの月は3回愛知がんセンターに通いました。1回の検査に対して事前に1回、事後報告のため1回と3回! その前には大腸ガンの検査で通っていたようにも思います。
2013年7月
ずっとですが大阪と三重、千葉との往復を続けていましたが、月末に千葉に戻り、その後すぐ三重に戻り、さらにまた月末の月末に千葉にもどりヨルダンから帰国した夫を成田に迎えにいったのでした。
2013年8月
成田着した夫と共に三重に。三重では草刈りなどの手伝いを夫が主にしてくれていたのですが、一緒に手伝うことになって、虫よけのためにフル装備。虫除けのついた帽子、長袖の手袋?長靴をまとって外にでると、急に喉が渇き、頭痛が始まり、くらくらになってとても立っていられなくなり、熱中症と勘違いしてすぐに冷房のきいた家にはいり頭痛が落ち着くまでまつ。熱中症と勘違いしたまま作業はもう手伝わなかった。これが10日前後。
13日のお盆すぎて、夫と再び千葉にもどり、夫を成田に送る。その後その日に三重に戻る。
戻った日の夜中、トイレにいったら突然猛烈な頭痛に襲われる。痛くてたまらず、運転もできない状態だったので自分で救急車を呼んで病院にいく。今回の妹と同じく、頭をかかえていたいいたい!って叫んでいました。
病院では、いろいろな薬を飲んだり点滴したりしてどれで症状が安定したかはわからなかったのですが、とりあえず夜中の3時かそれぐらいには頭痛がひとまず治まったので、アパートでタクシーで戻った。
翌日、義父を病院に送らないといけないため、朝から義母を迎えて義父の通っている病院へ。今思うとほんとこのときに何事もなくてよかったのですが、この夜、再度トイレにいって激痛! ロキソニンを貰っていたのですが、もちろん効かず。。こんなに痛い痛みは実はヨルダンで1度あったのですが(たしかこれは日記にかいてあった)ちょっと耐え難い痛みですし、なにより自身でこれは異常だ!と思えるものだったので、翌日再度病院に。
1日目もそうだったのですが、CTには出血が見れらなかったということと、妹のように出血がなかったので、結局原因分からずでしたが、血圧が高くなっていることと糖尿も悪くなっていたということもあり、最終的には糖尿を中心に治療しましょうということに。
ただ、後日精査したところCTには過去にラクナ梗塞があった痕があったらしい。ヨルダンにいたときに起こったものだろうか?
この頭痛のとき、一人でアパートにいたということもあり、また家族バラバラになっていたということもあり、死んでしまったらなにもメッセージを伝えられないと思って携帯電話に遺書を書きました。後日談で笑い話として使っていますが、ほんとうにそう思ったのです。
ですから、妹が山の家で頭を押さえながら、ピーターちゃんはこのときに一人だったんだよね。ごめんね。と言ってくれていたのですが、
今はすっかり過去のことになっていますが、ほんと痛かった。。その一言。
その後私の場合は、適度な運動、食生活の管理と進めていったので、今は糖尿も影を潜め(でも投薬は続けています)頭痛に関しては約1年間はなんだか突然どきどきどきガンガンガンというのはありましたが、今は自分でも危険回避できているので自己管理が進んだと自負しています。でも昔楽しんだテニスなどはできないし、はっきりいって飛行機に乗るもの避けたいです。妹がまだ倒れていないときに、一緒にゴルフをやろうと言われましたが、それもちょっと。。。。と曖昧な返事を返すだけでした。
妹も私と同じようにこれから体調管理をして、なにも考えなくても健康であろうと過信していた生活は終息することになります。そして年相応な危険を避けながら安定した暮らしをしていくほかありません。
年をとるということはこういうことなのだなと思います。
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