今日も今日とて・・^^;
2014年9月4日 親の介護 コメント (2)義父の病院に、義母を連れていってきました。
毎回車でお迎えに行くのですが、車の中でだいたいいろいろな話をしています。
今日は昨日から電話に雑音が入ってイライラしていたのがやっとなおったという話で興奮ぎみの義母でした。私は相変わらず相づちうつのがお仕事でした。
義父は実は昨日発熱されていて、寝てしまっていたということで看護婦さんから点滴をしていますという説明を受けました。顔色もよかったので、義父の子供(3人息子)宛にその旨メールを入れ、義母はいろいろ夜に心配してもらうと、こっちも嫌な気分になるので行きの車の中で状況説明しました。
義父の点滴は外れており、顔色も問題なく熱も下がっているようなので安心しました。私はいつも義父を見ていると、死の前に体は一生懸命闘っているのだと思います。体は動かない(パーキンソン)し、動くのは首から上だけ。認知症も進んでいるので、言葉掛けに答えるだけです。何を考えていらっしゃるのか、元々そんなにおしゃべりでもなかった性格もあってか、よくわからないです。でもまあ、知る必要があるかどうかは疑問ですが。
義母は当然ながら義父が生き続けるためには、どんなことでもしてほしいという気持ちがあります。
一方で私は自分の母親がいつも
チューブ人間になったりするのだけはいやだ。
尊厳死を理解してほしいし、自分も死ぬときは枯れるように死ぬことを望む。
といって、自分の死に向き合ってくれているので、延命治療などに対しては否定的な気持ちがあります。実際、母は自分の母親が死ぬ前に、心臓の電気ショック?のマッサージを受けて、医者に泣いて やめて!やめて。。。母がかわいそう。といった経験があるので。私が大学生のときでしたが、私もはっきり覚えています。その思い出が強いのだと思います。
義父のことで延命治療をどうするか?というのを入院先の主治医に必ず聞かれます。それを聞くことが義務づけられているように聞きます。
実はこのことが実は義母と私との一番意見の異なる部分です。
最も意見が違ったのが、自分の死に方を自分で決めるか、それとも周りの人に決めてもらえればいいか、ということでした。
みなさんはどちらでしょうか?
私は実は自分で決めればいいでしょ。人に決めてもらうもんじゃないでしょ。と思っていますが、義母は違います。そんなことは自分では決められないというのです。
要はその場でいる家族が相談してきめてくれ。らしいです。
ふーん。そうなんだあ。って思いました。私から見ると不思議です。
もちろんその場になると本人が声を出してはいえないども、前もって自分の死に方を決めておくなんてできないみたいです。
夫の解釈によると、それは宗教観の薄さからではないか。と言います。死ぬことを決められないのは死を受け入れたくないからだといいます。
でも宗教観でいえば、私たちの親の世代は、ちょっと欠落していますよね。とくに個人的意見では朝日新聞が好きな人って、その傾向あるかも?
というのは、やはり思春期を戦争で過ごしている人は、ある意味宗教的な意味合いの濃い時期(神道)にいたわけなので。その後、日本人的宗教観を一気になくさせる教育が行われてきたために、宗教意識がかなり欠落して大人時代を過ごしてきた。
だから千の風のような曲も受け入れられるんだと。
そういえば、義母は私の父が音楽葬をしたのですが、その式をみて
私も音楽葬がいい
とおっしゃった。そのとき私はすかさず
あれは、残されたものにとっては厄介でしたよ。
なにせ、位牌とか残せないので、あとで自宅にきたかたが、どこに手を合わせればよいかわからないとう状態だったので^^;;
結局葬式などについては、宗教抜きでは考えられないんです。
父は次男だったこともあるので、最終的にお墓を中心に考え、母の墓に自分でお墓を建てたということもあって、家では神棚に、お墓は形式的には浄土宗の檀家になっているので、浄土宗でやっていただく。という誠に日本人らしい形になっています。
へんてこですね。。
とりあえず、義母は宗教的なことは嫌いみたいで、お墓参りも私がするというと、喜んでくれます。本人はあんまり好きじゃないみたいです。おぼうさまがいらしても(夫の家は浄土真宗)、帰られた直後に、宗教否定のことばを言ったりします。お祈りというより、おぼうさんの所作とかのチェックをしたりします。私のお茶の出し方なんぞも注意されたりします。^^;;
横道それましたが、
そんなかんなで、宗教観を含め、死生観および死に際での対応の仕方について、スタンスが大幅に異なるため、これにからむ話になると、お互い、耳を塞ぐことが多いですね。ま、ここのところは
どうせ、仲のよい友達でもなんでもない関係だから、結論が出なくても気にしない
ということで放っておくようにしています。
私は、死ぬときはあっさりと死にたいですね。
もちろんあらゆる延命措置なしです。ブドウ糖点滴で、このままなら餓死します。という状況がベストです。。高濃度輸液、胃瘻なんて不要です。
そして、先祖が守ってきた宗教のお墓に入れてもらえればそれでいいです。ご先祖様といっしょに子孫を見守るという死後を選択します。
ちなみに、欧米では胃瘻というのは、拷問らしいです。
それを義母にちょろっといったら、びっくりして私の顔から目を背けてました。
そういう考え方もあるんですよ。と言ったけど、そのときにはもう耳のふたは完璧に閉じられていました。
あ。。。でももちろん義父のことでは私は口を出さないですよ。
義母も子供に決めてほしいとのことだったので、メールで夫に連絡とってもらって、三人の息子さんの間で相談してもらって入院先の主治医の先生に伝えていただきました。ま、次男さんが内科医なのでお医者さん同士で話をしてもらったみたいですが。
かように
私は言いたいことははっきりいう嫁なので、
姑は大変かもです。
ご苦労さまは、お義母さんのために必要なのかもしれませんね^^
毎回車でお迎えに行くのですが、車の中でだいたいいろいろな話をしています。
今日は昨日から電話に雑音が入ってイライラしていたのがやっとなおったという話で興奮ぎみの義母でした。私は相変わらず相づちうつのがお仕事でした。
義父は実は昨日発熱されていて、寝てしまっていたということで看護婦さんから点滴をしていますという説明を受けました。顔色もよかったので、義父の子供(3人息子)宛にその旨メールを入れ、義母はいろいろ夜に心配してもらうと、こっちも嫌な気分になるので行きの車の中で状況説明しました。
義父の点滴は外れており、顔色も問題なく熱も下がっているようなので安心しました。私はいつも義父を見ていると、死の前に体は一生懸命闘っているのだと思います。体は動かない(パーキンソン)し、動くのは首から上だけ。認知症も進んでいるので、言葉掛けに答えるだけです。何を考えていらっしゃるのか、元々そんなにおしゃべりでもなかった性格もあってか、よくわからないです。でもまあ、知る必要があるかどうかは疑問ですが。
義母は当然ながら義父が生き続けるためには、どんなことでもしてほしいという気持ちがあります。
一方で私は自分の母親がいつも
チューブ人間になったりするのだけはいやだ。
尊厳死を理解してほしいし、自分も死ぬときは枯れるように死ぬことを望む。
といって、自分の死に向き合ってくれているので、延命治療などに対しては否定的な気持ちがあります。実際、母は自分の母親が死ぬ前に、心臓の電気ショック?のマッサージを受けて、医者に泣いて やめて!やめて。。。母がかわいそう。といった経験があるので。私が大学生のときでしたが、私もはっきり覚えています。その思い出が強いのだと思います。
義父のことで延命治療をどうするか?というのを入院先の主治医に必ず聞かれます。それを聞くことが義務づけられているように聞きます。
実はこのことが実は義母と私との一番意見の異なる部分です。
最も意見が違ったのが、自分の死に方を自分で決めるか、それとも周りの人に決めてもらえればいいか、ということでした。
みなさんはどちらでしょうか?
私は実は自分で決めればいいでしょ。人に決めてもらうもんじゃないでしょ。と思っていますが、義母は違います。そんなことは自分では決められないというのです。
要はその場でいる家族が相談してきめてくれ。らしいです。
ふーん。そうなんだあ。って思いました。私から見ると不思議です。
もちろんその場になると本人が声を出してはいえないども、前もって自分の死に方を決めておくなんてできないみたいです。
夫の解釈によると、それは宗教観の薄さからではないか。と言います。死ぬことを決められないのは死を受け入れたくないからだといいます。
でも宗教観でいえば、私たちの親の世代は、ちょっと欠落していますよね。とくに個人的意見では朝日新聞が好きな人って、その傾向あるかも?
というのは、やはり思春期を戦争で過ごしている人は、ある意味宗教的な意味合いの濃い時期(神道)にいたわけなので。その後、日本人的宗教観を一気になくさせる教育が行われてきたために、宗教意識がかなり欠落して大人時代を過ごしてきた。
だから千の風のような曲も受け入れられるんだと。
そういえば、義母は私の父が音楽葬をしたのですが、その式をみて
私も音楽葬がいい
とおっしゃった。そのとき私はすかさず
あれは、残されたものにとっては厄介でしたよ。
なにせ、位牌とか残せないので、あとで自宅にきたかたが、どこに手を合わせればよいかわからないとう状態だったので^^;;
結局葬式などについては、宗教抜きでは考えられないんです。
父は次男だったこともあるので、最終的にお墓を中心に考え、母の墓に自分でお墓を建てたということもあって、家では神棚に、お墓は形式的には浄土宗の檀家になっているので、浄土宗でやっていただく。という誠に日本人らしい形になっています。
へんてこですね。。
とりあえず、義母は宗教的なことは嫌いみたいで、お墓参りも私がするというと、喜んでくれます。本人はあんまり好きじゃないみたいです。おぼうさまがいらしても(夫の家は浄土真宗)、帰られた直後に、宗教否定のことばを言ったりします。お祈りというより、おぼうさんの所作とかのチェックをしたりします。私のお茶の出し方なんぞも注意されたりします。^^;;
横道それましたが、
そんなかんなで、宗教観を含め、死生観および死に際での対応の仕方について、スタンスが大幅に異なるため、これにからむ話になると、お互い、耳を塞ぐことが多いですね。ま、ここのところは
どうせ、仲のよい友達でもなんでもない関係だから、結論が出なくても気にしない
ということで放っておくようにしています。
私は、死ぬときはあっさりと死にたいですね。
もちろんあらゆる延命措置なしです。ブドウ糖点滴で、このままなら餓死します。という状況がベストです。。高濃度輸液、胃瘻なんて不要です。
そして、先祖が守ってきた宗教のお墓に入れてもらえればそれでいいです。ご先祖様といっしょに子孫を見守るという死後を選択します。
ちなみに、欧米では胃瘻というのは、拷問らしいです。
それを義母にちょろっといったら、びっくりして私の顔から目を背けてました。
そういう考え方もあるんですよ。と言ったけど、そのときにはもう耳のふたは完璧に閉じられていました。
あ。。。でももちろん義父のことでは私は口を出さないですよ。
義母も子供に決めてほしいとのことだったので、メールで夫に連絡とってもらって、三人の息子さんの間で相談してもらって入院先の主治医の先生に伝えていただきました。ま、次男さんが内科医なのでお医者さん同士で話をしてもらったみたいですが。
かように
私は言いたいことははっきりいう嫁なので、
姑は大変かもです。
ご苦労さまは、お義母さんのために必要なのかもしれませんね^^
コメント
死に臨んで、というかその時に備えて臓器提供カードのように「延命を望む」「延命治療は望まないが最低限の苦痛緩和だけを望む」「痛くても構わないのでお金の大量に必要とする治療は一切望まない」といったものがあるといいのに。と思いました。
脳をやられてしまうと意思表示がとてもむずかしいのです。妻の祖母は最後は胃ろうをして「生きているだけ」の状態が結構続きましたが、「あれで本当に幸せなのかな?」と僕らは回復の奇跡を信じました。(大概あの状況からものが言えるまでには回復しないのですが)
僕は年齢にしては数多くの死を見てきました。葬儀も様々、その後の宴会(?)の席での個人に対する人の物言いでも考えることがたくさんありました。僕が現段階で妻に言ってることは死んだら降りる保険金を持って残された人で七つの海を旅行して骨を海に撒いちゃって!と言ってあります。 日本は島国なので会いに来たくなったら海に線香上げてくれりゃあいいさ。と。
七つの海というのはおそらく僕は外国を自由に旅行して回るようなことはこれからないだろうから死んだら自由に世界中を旅するように。というささやかな願いからです。
けど、僕の死亡保険金では七つの海は無理っぽいですが(笑)
位牌と仏壇(神棚)ですかあ。カラーボックスに思い出の写真と線香立てくらいで充分だと僕ならいうんですけどね^^;
散骨するのはちょっとマズイというのは知っていますが、(無許可だと)ちょろっと撒いちゃって。と「それはただの骨だよ」とも。間違ってもこっち(小田原)の墓になんか入れたら恨んででるからな! 生きてる時に僕はいろいろな我慢をしてるので死んだら限りなく自由で!!(笑)とも伝えてあります。 財産の事もそうですが、日本人は死んだ後のことを話すのをはばかるきらいがありますね。妻は仕事柄「身内でああいうのが起きると面倒だから公正証書で残しておいてね!」と自分の両親と、子供のいないおじおばに言ってますが、まあ聞きませんね。僕だってそんな金貰ったってこれっぽっちも嬉しくないです。自分で汗して買ったアイスの方が人の金で買った超豪華デラックス・ケーキより旨いってものです。
なんだか命の話からずれました。
終末期の介護・看護に関わっている人には「大切な人が無くなったあとそれをやりきってアナタが倒れちゃったらされた人もきっと悲しむと思うので楽しみを持って(残して)ことにあたってください」と申し上げています。
不謹慎かも知れませんが人がなくなるという出来事はおそらく一生のうちで一瞬の出来事です。 けど、残された人はその後自分のその時が来るまで「生き続ける」のです。だから楽しみを見つけてほしいと思います。
一休和尚が言っています
「大丈夫」「心配するな」「なんとかなる」と。
僕もたくさーん色々と抱えていますが自分にも言い聞かせています。
病院でのカードでの選択って確かに便利でいいなと思います。
やはり看取りをした方は、共通して思うことがありますね。私は父がとても優等生に亡くなったのもあって、人頼りで死んで行くのってなんか甘えているような気持ちにもなります。
ただ、不思議なことに残された自分の母には、甘えられてもうれしい・・というか、残り少ない親子の時間を大切にできるので喜んでいるんですけどね。
いろんな貴重なご意見を伺えてうれしいです。これからもよろしくお願いいたします。