親が年を取るということ
2014年8月24日 親の介護 コメント (2)さて
今私はなんのために生きてるの?て言われると、
自分のために自分の時間を使うことは四分の一ぐらいになってしまって、
半分は両家の親のため、あとの残りは子供と千葉の自宅のため。。そんな割り振りで毎日なんやかやとしております。
私の親は父親は既になくなって13年経過しました。母親は88才! 徐々に物忘れは多くなっていますが、今は特に具合の悪いこともなく、大阪で独居でがんばってくれています。これにはほんとうに感謝感謝です。
ただ、杖をついてるし、事務的なことができなくなったからやってほしいということなので、私が手伝えることを処理しに月に2回は帰るようにしています。
大阪に月2回。
そして三重の夫の父母ですが、義母はまだお元気ですが、義父は特定疾患のパーキンソン病と認知症が進み、今は介護施設は住めなくなってしまい、長期療養型の病院に入院を1ヶ月前にしました。実は介護施設で食事ができなくなり、誤嚥性肺炎で入院したのがきっかけでした。
三重にアパートを借りたのも、義母が義父の介護施設に通うのを手伝うというのが目的だったのですが、現在の病院は先の介護施設よりも義母にとっては遠方でもう歩いて行くことができないので、義母は週2回だけ私が送り迎えしています。ので、なぜか?私が毎日義父の様子を見に行くことを担当しています。そして洗濯ものを持って帰って処理するということをしています。
この三重での生活が基本で、あるときは大阪へ。あるときは千葉へ。あるいは東京の長男のところへ。という感じなので、とにかくあっちこっちにいってます。まさに嫁には三界に家なしです^^
とはいってもアパートは結構快適?で、まぁ同居となると毎日別の意味でストレスだったと思いますが、気楽な一人暮らしということで、できるだけ快適になるように努力しています。
この点は夫もとても協力的で、日頃自分の親を自分の代わりに見てもらっているということもあり、ヨルダンからたまに帰国したときにはとっても私を大事にしてくれます。
また夫なしの日本での生活も、ピーターちゃんの好きにすればいいよと言ってくれます。ですので、結構好きにさせていただいています。
夫も、この日記を書き始めたとき、夫を三十郎と呼んでいたのですがすでに五十郎となってしまった。夫の父も88才、母も82才。私が私だけのことを考えて過ごしている間に、元気な義父はいなくなってしまい、今も病院での声がけには5回の訪問で一度ぐらいしか私を認識できていないようです。
ところで
義父のことで思ったことは、義父はパーキンソン病があるため、今回長期療養型の病院に移れました。特定疾患ということも手伝ってか転院も非常にスムーズで最優先で入れた!という感じがありました。しかし、ふと、これがパーキンソンではなく、ただの老衰であったらどうなるんだろう?
特に、吸痰という厄介な作業を夜中にしなければならないという場合は、介護保険で入れる施設には入れない。かといってパーキンソンの患者さんのように長期療養型に入れるのだろうか?
このときもし同居である場合はどうなるのだろうか?
などといろいろ考えてしまいます。私は住民票は千葉にあるし、今年もリフォームなどで千葉に戻ることも多かったのです。同居したとしても同居とは言えない状態が続く。私は母とは性格も生活も全くの不一致ですし、同居なんてできない!というのが正直で夫もそれを認めている。実家の母とでさえ同居となるとちょっと遠慮してしまうぐらいなので^^;;
ですので、今の私は、これからの生活を考えていくときに、私の本拠地はどこにすべきなのか? いったいいつになったら終の住処としての居場所を決定できるのか?などなど結構不安要素がいっぱい。
でもその前に、順番としてはきっと、義父>私の母>義母 で見送る役目があるでしょうし、義母はお元気なのできっと100才すぎるまで生きるのでは?と思っているので、それまでの20年あまりを、快適に過ごすためにどうすべきか?といった課題を毎日頭の中でぼんやりと考えているのです。
いろいろ考えるとやっかいな気持ちになるので、そういうときの為に、実は油絵をかくようにしています。簡単なものを好きなように! というをモットーに、主に簡単にかける民芸品などを買ってきてそれを書いたりしています。
最近面白くできたのは、かえるちゃんの絵です。それを見るとなんだかホーーっと落ち着きます。
さらに気分が晴れるように、義父の病院通いのあとに、川沿いを自転車で走るということをするようになりました。
もともとスポーツは大好きでしたが、もうテニスもできなくなって十年以上が過ぎました。軽い有酸素運動をするように心がけだしているので、最初はお散歩していたのですが、一人のお散歩は寂しいということもありますが、なにより川沿いを歩くのが単調なので、もっとスピード感があるものということで自転車にしたところ、大正解! とおっても気分転換でき、夕風にあたりながら木曽三川を眺めているとスカーっとした気分になります。伊勢湾側は残念ながら工場地帯が広がっていますが^^;;そこまでは遠いので自然を満喫できます。
レガシーのツーリングワゴンの荷物入れに折りたたみの自転車を入れています。
ちなみに今回夏に夫が一時帰国したときにもう一台買って詰め込み、京都に二泊してきました。京都は夫が学生時代に過ごしたところでもあり、また私の実家にも比較的近いので子供のころよく私もいきました。大学生のときは妹とも歩き回りました。
それを自転車にのって夕方の鴨川をブーンと夫と走り回るなんて、ちっとも想像できなかった楽しさがありました。夫も楽しんでくれたようなので、今年の夏は結構楽しい余暇を過ごせました。
こういうふうに自分の余暇のことを考えるようになれるまでには、実はだいぶ義母との葛藤に悩んできました。義母は、とても一生懸命な方なんですが、私の実家のやり方とは違い、周りと協調してやっていくというよりは、自分の正義を通す方が大事な方なのです。ですので、嫁にも好き嫌いがあり、一人の嫁(例えば私)であっても、やりようがまずければ一気に批判的になります。
若いときはつきあいにくいと思いましたし、義母の手伝いを去年からしなければならなくなったときにちょっと頭がいたいときもありましたが、私も年の功です^^ 結構素直に発言する嫁になってきて、とにかく巻き込まれるより巻き込もう戦略?で、つきあうようにしています。最もストレスになるのは、文句があって言わないでためておく。ということなので、義母の意見(車の中でよく話をします)に合わないことは、はっきり私の意見はこうです。ということを言うようにしたら・・・結果今のところオーライです。
いろいろ意見の違いはありますが、夫が私に言った言葉<自分(夫)を産んでくれた親と思って世話をしてくれ。>私は夫が大好きなので、夫の親なので手伝いするだけです。それをいつも思いつつ、自分のペースも乱されないようにする。私は義母とお友達関係になるつもりもまったくないので、自分のプライバシーには触れてほしくないと思っている生意気嫁なんですね。そこは別居でカバーできる。ただ別居だとよけいな出費がかさんで。。ここがつらいところです。しかも義父母の家は広いけれどもう古い古いでリフォームが必要だし。。ここ頭いたいところです。
一方で、義母の立場にすれば、長男(夫)が日本にいてくれたら、なにかと心強いと思いますが、残念ながらプライバシー守れを沈黙で訴える嫁だけが頼り。。。そんな義母にも結構同情はします。私もきっと年をとったら寂しいんだろうなーーとか考えてね^^
一時期は母の話をきき、義母の話を聞きと・・・老人の話を聞いていると、いつ死ぬか分かんないとか、死と向き合っているのは若い人にはわからんとか、話題は死や病気ばかりで、心がどんどんへたっていきそうでした。とくに自分も自分の死と向き合っていたときがあったので、そっちに戻ってしまったらどうしようと心配していたときもありました。でも今回は上手に切り抜けられました。
女って悲しい性(さが)がありますね。
そんなことを漠然とも思いつつ、とにかく振り返らないで、元気な自分でいて、自分の人生を丸儲け?できるようなそんな毎日を送っていきたいと思っています。
今私はなんのために生きてるの?て言われると、
自分のために自分の時間を使うことは四分の一ぐらいになってしまって、
半分は両家の親のため、あとの残りは子供と千葉の自宅のため。。そんな割り振りで毎日なんやかやとしております。
私の親は父親は既になくなって13年経過しました。母親は88才! 徐々に物忘れは多くなっていますが、今は特に具合の悪いこともなく、大阪で独居でがんばってくれています。これにはほんとうに感謝感謝です。
ただ、杖をついてるし、事務的なことができなくなったからやってほしいということなので、私が手伝えることを処理しに月に2回は帰るようにしています。
大阪に月2回。
そして三重の夫の父母ですが、義母はまだお元気ですが、義父は特定疾患のパーキンソン病と認知症が進み、今は介護施設は住めなくなってしまい、長期療養型の病院に入院を1ヶ月前にしました。実は介護施設で食事ができなくなり、誤嚥性肺炎で入院したのがきっかけでした。
三重にアパートを借りたのも、義母が義父の介護施設に通うのを手伝うというのが目的だったのですが、現在の病院は先の介護施設よりも義母にとっては遠方でもう歩いて行くことができないので、義母は週2回だけ私が送り迎えしています。ので、なぜか?私が毎日義父の様子を見に行くことを担当しています。そして洗濯ものを持って帰って処理するということをしています。
この三重での生活が基本で、あるときは大阪へ。あるときは千葉へ。あるいは東京の長男のところへ。という感じなので、とにかくあっちこっちにいってます。まさに嫁には三界に家なしです^^
とはいってもアパートは結構快適?で、まぁ同居となると毎日別の意味でストレスだったと思いますが、気楽な一人暮らしということで、できるだけ快適になるように努力しています。
この点は夫もとても協力的で、日頃自分の親を自分の代わりに見てもらっているということもあり、ヨルダンからたまに帰国したときにはとっても私を大事にしてくれます。
また夫なしの日本での生活も、ピーターちゃんの好きにすればいいよと言ってくれます。ですので、結構好きにさせていただいています。
夫も、この日記を書き始めたとき、夫を三十郎と呼んでいたのですがすでに五十郎となってしまった。夫の父も88才、母も82才。私が私だけのことを考えて過ごしている間に、元気な義父はいなくなってしまい、今も病院での声がけには5回の訪問で一度ぐらいしか私を認識できていないようです。
ところで
義父のことで思ったことは、義父はパーキンソン病があるため、今回長期療養型の病院に移れました。特定疾患ということも手伝ってか転院も非常にスムーズで最優先で入れた!という感じがありました。しかし、ふと、これがパーキンソンではなく、ただの老衰であったらどうなるんだろう?
特に、吸痰という厄介な作業を夜中にしなければならないという場合は、介護保険で入れる施設には入れない。かといってパーキンソンの患者さんのように長期療養型に入れるのだろうか?
このときもし同居である場合はどうなるのだろうか?
などといろいろ考えてしまいます。私は住民票は千葉にあるし、今年もリフォームなどで千葉に戻ることも多かったのです。同居したとしても同居とは言えない状態が続く。私は母とは性格も生活も全くの不一致ですし、同居なんてできない!というのが正直で夫もそれを認めている。実家の母とでさえ同居となるとちょっと遠慮してしまうぐらいなので^^;;
ですので、今の私は、これからの生活を考えていくときに、私の本拠地はどこにすべきなのか? いったいいつになったら終の住処としての居場所を決定できるのか?などなど結構不安要素がいっぱい。
でもその前に、順番としてはきっと、義父>私の母>義母 で見送る役目があるでしょうし、義母はお元気なのできっと100才すぎるまで生きるのでは?と思っているので、それまでの20年あまりを、快適に過ごすためにどうすべきか?といった課題を毎日頭の中でぼんやりと考えているのです。
いろいろ考えるとやっかいな気持ちになるので、そういうときの為に、実は油絵をかくようにしています。簡単なものを好きなように! というをモットーに、主に簡単にかける民芸品などを買ってきてそれを書いたりしています。
最近面白くできたのは、かえるちゃんの絵です。それを見るとなんだかホーーっと落ち着きます。
さらに気分が晴れるように、義父の病院通いのあとに、川沿いを自転車で走るということをするようになりました。
もともとスポーツは大好きでしたが、もうテニスもできなくなって十年以上が過ぎました。軽い有酸素運動をするように心がけだしているので、最初はお散歩していたのですが、一人のお散歩は寂しいということもありますが、なにより川沿いを歩くのが単調なので、もっとスピード感があるものということで自転車にしたところ、大正解! とおっても気分転換でき、夕風にあたりながら木曽三川を眺めているとスカーっとした気分になります。伊勢湾側は残念ながら工場地帯が広がっていますが^^;;そこまでは遠いので自然を満喫できます。
レガシーのツーリングワゴンの荷物入れに折りたたみの自転車を入れています。
ちなみに今回夏に夫が一時帰国したときにもう一台買って詰め込み、京都に二泊してきました。京都は夫が学生時代に過ごしたところでもあり、また私の実家にも比較的近いので子供のころよく私もいきました。大学生のときは妹とも歩き回りました。
それを自転車にのって夕方の鴨川をブーンと夫と走り回るなんて、ちっとも想像できなかった楽しさがありました。夫も楽しんでくれたようなので、今年の夏は結構楽しい余暇を過ごせました。
こういうふうに自分の余暇のことを考えるようになれるまでには、実はだいぶ義母との葛藤に悩んできました。義母は、とても一生懸命な方なんですが、私の実家のやり方とは違い、周りと協調してやっていくというよりは、自分の正義を通す方が大事な方なのです。ですので、嫁にも好き嫌いがあり、一人の嫁(例えば私)であっても、やりようがまずければ一気に批判的になります。
若いときはつきあいにくいと思いましたし、義母の手伝いを去年からしなければならなくなったときにちょっと頭がいたいときもありましたが、私も年の功です^^ 結構素直に発言する嫁になってきて、とにかく巻き込まれるより巻き込もう戦略?で、つきあうようにしています。最もストレスになるのは、文句があって言わないでためておく。ということなので、義母の意見(車の中でよく話をします)に合わないことは、はっきり私の意見はこうです。ということを言うようにしたら・・・結果今のところオーライです。
いろいろ意見の違いはありますが、夫が私に言った言葉<自分(夫)を産んでくれた親と思って世話をしてくれ。>私は夫が大好きなので、夫の親なので手伝いするだけです。それをいつも思いつつ、自分のペースも乱されないようにする。私は義母とお友達関係になるつもりもまったくないので、自分のプライバシーには触れてほしくないと思っている生意気嫁なんですね。そこは別居でカバーできる。ただ別居だとよけいな出費がかさんで。。ここがつらいところです。しかも義父母の家は広いけれどもう古い古いでリフォームが必要だし。。ここ頭いたいところです。
一方で、義母の立場にすれば、長男(夫)が日本にいてくれたら、なにかと心強いと思いますが、残念ながらプライバシー守れを沈黙で訴える嫁だけが頼り。。。そんな義母にも結構同情はします。私もきっと年をとったら寂しいんだろうなーーとか考えてね^^
一時期は母の話をきき、義母の話を聞きと・・・老人の話を聞いていると、いつ死ぬか分かんないとか、死と向き合っているのは若い人にはわからんとか、話題は死や病気ばかりで、心がどんどんへたっていきそうでした。とくに自分も自分の死と向き合っていたときがあったので、そっちに戻ってしまったらどうしようと心配していたときもありました。でも今回は上手に切り抜けられました。
女って悲しい性(さが)がありますね。
そんなことを漠然とも思いつつ、とにかく振り返らないで、元気な自分でいて、自分の人生を丸儲け?できるようなそんな毎日を送っていきたいと思っています。
コメント
実は同居の話になった時岳父は「そういうのは俺が死んだら勝手にやってくれ」(怒った様子ではなく、酒の席で笑いながら)と言ってました。岳父も岳母も結構周りに気を使うので疲れるのだと思います。何もないと張り合いがないのでうちの子を派遣して(笑)適度にお仕事をお願いしています。それくらいの距離感がいいかな?と。
生き方というのは自分で選べても死に方を選べる人は少ないですね。ましてやよっぽどでない限り後のことを託せる人はいない。病や事故は突然起きてしまうので。
僕も人生何度か死にかけましたが今のところなんとか生きています。
「生きているということは生かされていて、自分になし得ることが今日一日あるからなのだな」と毎朝目覚めると感じます。
大変な毎日の中で少しでも楽しいコトや嬉しい事がありますように願っています。
まだまだ暑い日が続きますのでどうぞお体ご自愛下さいね。
そういうことを打算的に考えなければ、今の私はやっていけないのですが、情だけで同居に走るのは怖すぎてできないです。
核家族化の産物ですね^^;;
エールありがとうございます。なんだか戻ってくるなりこんな優しさいただけて感激でございまする。