まぁ・・ついでといってはなんなんですが・・^^;

すでに次男も公立の学校にはお世話にならないし
もうすぐまた仕事が始まるとこんなことを
考えて書くということもなくなるでしょうから
この10数年間の子供の学校のPTA活動を通しての
率直な意見をまとめてみようと思います

当然ながら、公立の学校のよさというのを
語るよりも、現状での問題点を挙げるということに
なってしまいます さらに私の子供は公立の中学校には
行かせたことがないので、小学校をみて・・という
ことになりますが・・
とりあえず、つれづれなるままに・・

1)「この学校はこんな教育をしてくれる」という
  特色をはっきりと出せる学校にする

たとえば、長男が通っていたときには、この学区の小学校には4月に「筑波山」への山登りを、地区ごとに縦割りの形(つまり小学校低学年から高学年を混ぜて)で、行っていたのですが、これがヨルダンから戻ったらなくなってしまっていました
自分の母校を大人になって語るとき「私たちの小学校には、こういう行事があった こういう教えがあった」というものがあるのは、とても大切なことだし、それをもってその小学校の伝統といってもいいと思います
それが、年々なくなってきている・・と感じています

その、原因はやはり校長先生がコロコロ変わる、あるいは校長先生の意向ですべてを変えられる・・という、いわば学校のトップである運営側の問題かな?と思います ここのところは、保護者の中でもごちゃごちゃにしている部分が多いのですが、やはりこの組織としての学校の運営なるものを、もっと運営者側・・つまり校長先生・教頭先生などが、前任者からの引継ぎ、マニュアルの整備などを通して、確立させる必要があると思います
ここの部分は、先生側の個々の授業内容のレベル云々とは異なった部分で、あくまで年間行事の中での学校側の取り組みの部分になります

毎年人事異動が青天の霹靂のように行われるのも問題かなと・・おそらく引き継ぎ期間なども皆無であるのも、その学校の特徴を把握しきれないシステムだと思います

まず、地域の学校の「特色化」に磨きをかけていただきたいです

2)「能力の格差を助長している授業」という意識を持たせない教育

優れた人材を育成するというのは、もはや公立においては死語になるのかもしれません(進学公立高校ぐらい?)小学校において、なぜ優れた人材を育成することができないのか?という問題はここでは論外 ・・・それより現場中心でいえば、低学力の子供の救済策があまりに取られていないなど、いわゆる落ちこぼれた子に対する教師側の対応について述べてみたいと思います・・・・ たとえば、ハーフ(お母さんが東南アジア系でお父さんが日本人)の子供など、ほぼ言語能力の上で劣勢の立場にいる彼らは救われていません(ただできないというレッテルが貼られているのみ) さらに、最近は、なかよしなどには入らない、知的障害者が見えない形で学級に入ってきたりするのは、教育的な配慮でいえば間違ってはいませんが、彼らに対する教師側の受け皿がない(大学教育課程で学んでこない・現場では教師の人数が足りないので対応不可能)ので、結果的に学級崩壊などのきっかけになったりする場合がある いや・・よしんば健常児であっても、塾にも行かず、学校のカリキュラムだけをやっていても、落ちこぼれてしまっている子も多数という指導要領の乏しさと授業量の激減・・(特に中学校になって分数ができない子がたくさんいるという現状をみても)
それらを少しでもバックアップする体制というものを、今の小学校では(少なくとも、子供の小学校では)考えられていません

インターを例にしてみてみますと、必ず補助の先生がクラスの後ろに待機していて、採点の補助以外にも、わからない子の席までいって個別に教えてあげる、さらには、クラスの中でよくわかっている子供を「先生のアシスタント」という資格を与えて、ほかの子に教えてあげるなど、授業における配慮がなされています もちろんそこだけで補えない部分も出てくる場合もあるとは思いますが、ここで大切なのは

「先生が、授業中に相手にしない子をつくらない」

という姿勢・・これは、(私が思うに)子供たちのいじめの第一歩になることだと思うのです つまりは、現場の先生が「彼にはもう無理だから」といって見捨てる態度こそ、影のいじめ問題につながっているのだと私は思っているのです 要するに、今の教育体制がいじめを作っているといってもよいと思っています

できる子ができない子を教えたり、弱いものが強いものをカバーしてあげるという姿勢が授業中にないというのは、ほんとうに悲しいことであると思います・・・せめて、学校という集団生活の中で、人間には得意・不得意分野が必ずあって、それらはグループである程度は補っていけるのだという姿勢があってしかるべきなんじゃないか?と思うわけです

少人数制が、市などの予算で教師側に求めるのは無理だとしたら、結局のところ、子供たち自身に助けてもらうしかないと私は考えます できる子はそのまま、できない子もそのまま・・という授業の進め方をするのではなく、相互に援け合えるという学習方法を取り入れること・・それによって、自分以外の能力の持ち主を否定しないで受け入れるという生き方をせめて、小学校の間だけでも学ばせてほしいと願います

追加で言えば、国語力の低下が叫ばれてもう久しいかぎりですが・・これだって、二人ペアにして、絵本を読み聞かせしあう授業があってもよいと思います 次男の小学校でいえば、それをするだけの図書もそろえられていないほどで・・比較的首都圏に近い千葉の田舎とはいえ、学校側の設備をみると、当然ながら学生の読書力の低下はわかる・・という具合・・ ちょっとした工夫で先生が孤軍奮闘しなくとも、生徒同士で切磋琢磨できる機会はゴロゴロしていると思いますよ・・・ほんと

3)地域の専門家の力を借りた授業

これは、まさしく市政に頼る部分になると思います・・私がPTAを介して教育委員長にあるお願いをしたら、当時の教育委員長は「ツルの一声でこれをやれというのは、私はしません そんな権威を振りかざすようなことはしない」とおっしゃって私は大いに憤慨したのですが・・教育委員会が、「この市での教育にはこれを必ずいれよう」と指針をもつことをなぜしないのか?と疑問に思ってしまいました このときに、学んだことは、学校の運営は校長先生が握っているということでしたが・・結局のところ校長先生だって、時間はないし、できることは限られているという、理想と現実のハザマに立たされてよほどの人物でないかぎり出る杭にはなろうとしないでしょう 現実、小学校も中学校も、いかによい教育を施すか?というよりもむしろ「いかに問題を起こさないか?」ということに先生方は執着されておられるように見受けられます

郵便局ではありませんが、まず学校の運営者側の「意識の改革」が必要であって、それは教育委員会も同じこと・・県や市はもっと教育内容に深くつっこんで議論をすべきです それは文部科学省が出してくる教育指導要領とは別の問題であると思います 今はもう中央に頼って当たり前の教育、今までと同じことを繰り返すだけの公務員体質でやってはならないことが教育なのだと思います

いや・・ なぜ教育委員会と校長先生・教頭先生と、市の教育内容について改善や、方針をじっくり検討していないか・・という疑問すら出てきてしまいます

さて、前座がながくなってすみません で、地域の専門家の力を借りるという点ですが、確かにPTA活動を通して、地域のかたがたが学校を影で支えてくださっている努力というのは、私も感じることができました でもそれは、意外と授業以外のもので・・花壇の整理をしてくださったり、図書の整理だったり、朝の交通安全だったり・・そういう表舞台には出てこない部分での支えが多かったように思います

私は、なぜ日本の学校教育は、もっと社会のことを知る内容になっていないのだろう?と思うときがあります それは子供たちにも「なぜ勉強をするのか?」という動機付けとして欠落する部分でもあると思います 確かに社会の教科書には、日本の車産業のことなどもシステムとしての紹介はなされています だけど、現実問題として、その教育を受けても子供たちが「ぼくは、この仕事に就きたいな こんな研究をしてみたいな」と思えるような・・・そんな内容にはなっていない

それらの、子供が将来の「労働者」としての、夢をもっと現実的に感じられるようになる・・・それが地域の専門家の方の力でなしうるのではないか?と思うのです

仕事に直結しなくとも、もっと自然に興味を抱く授業、理科の実験に興味を抱く授業・・・染色技術や、工芸など、専門的な技術者になることに夢を抱ける授業・・ いろんな仕事があって、いろんな大人が一生懸命取り組んでいるという姿をどうして学校教育に取り入れないのか・・・ここは、私がもっとも疑問に思うところです

社会見学という授業はあっても、社会を体験するという授業もほぼ皆無ですよね・・ なぜ、車を作っている人、修理している人を学校に招いてお話をしたり実際にみんなにやってもらうなどという授業がないのでしょう? ヨルダンでは、考古学の先生にきていただいて、実際につぼを掘る(といってもダンボールの中の砂のなかに埋められているものを掘るんですが)体験などもしてもらったり、ヨルダンの植物の話などもしてもらったりしていました 日本にはもっともっと自分たちの社会を身近に知ることができるチャンスと人材があるはずなのに・・

ここら辺でいえば、梨園の農家が多いのですから、その苦労などを教えてもらったりね サラリーマンだって、いろんな仕事があるんです 世間と分離した教育をわざわざしているとしか思えない 

また、教育委員会が「カリキュラムの中に、1学期に1度の専門家との体験(や講話)を入れる」とつるの一声で言ってなぜ悪いのでしょう?よくわかりません

4)PTA活動の全員参加

今はすでに少子化となっていて、現実問題としてPTAの役員になる人は少なくなっています
でも、考えてみれば、このPTA活動というものは、実質上運営をPTAが肩代わりしているものであり、それは結果的に経営を援けている活動だといえます ここのところ、幼稚園のときもそうでしたが、誤解しているPTAの方が多すぎる ただで通わせることができる学校、お金をかけなくても子供の能力を伸ばしてくれるのが学校・・ 現状の公立小学校を見ていない証拠でもありますよね 私は、公立だからこそ、親はそれなりに参加しなければならない義務があるとさえ思っています PTA活動は逃げたもの勝ち!だれか専業主婦がやってくれれば、自分に火の粉がかかってこなければそれでいい・・そんな安直な意識ばかりを持っていて、実際にやらなければいけないときには「自分は大変な年になってしまっている」と・・

確かにPTA活動にかかわることは大変でもありますし、共稼ぎの家庭が増えている現状からは、これからは人員確保にPTAの本部役員はきっと頭を悩ます時代になるでしょう
それは、今までのPTAの組織自体も旧態依然として、だれかに負担が集中するものでもあって、さらには、その努力が報われるということはほぼない 自分がやってためになったと思うことぐらいがせいぜいなのかもしれません

でも、結局こういう親の態度が、もしかすると今の学校の先生への子供の不遜な態度になっているかもしれません 先生への敬意が失われているのは、親がそういう敬意をもっていない・・これは実感してきました 先生にも学校にも感謝せず、PTA活動も誰かにお任せ、自分がやるときは「迷惑」とさえ感じて公言してはばからない日本のお母さん方を見るにつけ、ほんと教育現場の荒廃をつくづく感じてしまいます

PTAの活動内容を変える・・
すべての保護者が毎年かかわって学校を支えていく活動にする
当たり前のことを当たり前の活動として考えるということも
これからは大切なことだと思います!!

・・・・・・・・・・・・・・・・・

細かいところでいえば、まだまだあるのですが
私が常日頃疑問に思っていたことは
以上です

先月の卒業式のとき
子供たちが卒業証書をもらうときに
一言づつ「ぼくは○○になるためにがんばります」といった
豊富を語っていました

その内容の乏しさにもちょっと残念に思いましたよ

わが子もそうだったのですが
「(ある教科)をがんばって勉強します」
とか
「時間の使い方が下手なので努力します」
とか・・
あるいは、「○○になりたいです」
といったことも、テニスの選手とか、サッカーの選手とか
わりと、限られた範疇での目標しか掲げていなかった
私からみたら、幼稚園の七夕のときに
かざる短冊に書かれた内容とさして違わないな・・
いや、もっと夢のないものになっているかも・・と
思ってしまいました

もっと、子供たちが視野を広げて
いろんな世界を見てみたいという
そんな気持ちが感じられる卒業式の一言を
聞ける日がきたら、日本も変わってきたなと
思えるようになるんだろうなぁ・・と
思いましたよ・・
決して理想論なんかなじゃくってね^^;

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