実は昨日今日と、配達が終わってぼけ〜と珍しくTVを見ていたら、「できちゃった婚」の再放送をしていてみてしまいました
二日分みたので、実際には4日分(1日二日分放送していた模様)見てしまったのですが・・
なんだか涙が出てとまらなかったです
千葉真一が、見ようによっては大根役者っぽかったのにもかかわらずちょっと父に面影が似ていて、なおかつ結婚や出産のことがオーバーラップしてしまってね・・
実はヨルダン駐在中に日本に一時帰国して子宮筋腫の手術をしたのですが・・手術と術後の経過はほとんど「楽勝〜!」っていう感じだったのですが・・・ 最初の検診のときに、ちょうどどこかのおうちの赤ちゃんが産まれたみたいで、両家の親がばたばた〜っとうれしそうにかけこんできた・・という場面に遭遇したのです そのときにはすでに父を亡くしていたのですが、その姿をみて・・ 恥ずかしながら診察室の前の待合のところでポロポロ泣いてしまった あぁ・・私たちもああいうときがあったなぁ・・ってね・・ 父も母もまだまだ元気で、父にいたっては「孫が生まれてもおじいちゃんとは言わせない 親戚のおじさんと言わせる!」なぁんて強気でいっていたころでね・・ ところがなかなか産まれてこなかった長男がやっと産まれたとき、その長男を見ながら、父と母は涙してた 私はそれは見ていなかったのだけど、ビデオで後で知ったのだけど・・ 二人とも産まれてきた長男を「天使のようだ」といって、とても喜んでくれた あのときの家族の有様が、ふつふつと思い出されてきて、若く見えるご両親が、初めて孫を迎える・・あるいは、娘・嫁が子供を産むという一大イベントを・・走ったり叫んだりして、ほんと幸せそうにしているシーンが目の前で展開されていたのを見て・・ もうあれは15年も昔の話になってしまったのだ・・ 15年という長いようで短いときの間に、父は亡くなり、母も年老いてしまって、すっかり身の回りの風景が変わってしまった そう思うと、とてもさびしくなってね・・ 人生なんてあっという間で、子供のころから大人になるまでは考えもしなかったような、そんな寂しさというか・・ よくわからないのだけど、虚しさとは違った切ない気持ちに襲われたのです TVドラマを見ながら、また同じような気持ちになってしまっていました
大学のときに、フランス文学の講義をとったのですが、こんな詩があったのを思い出します
秋の日の
ヰ゛オロンの
ためいきの
身にしみて
うら悲し。
鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。
げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。
(ヴェルレーヌ 「落ち葉」上田敏訳)
私はいつも
雨がふる駅舎に みすぼらしい老人が
窓にぴったりとよりそって 外を見ている
その老人の目からは 涙があふれているのだけれど
まわりの人はだれも老人には関心がない
そんなシーンで思い出したりするのです
詩はすっかり忘れていましたけど・・・
この詩は、詩嫌いの私としては珍しく心に焼き付いてね
映画のワンシーンのようにふと思うことがよくあった
今もそう・・ 人生とはそういうもので
老人の感傷というのは、周りの若者には無縁になりがち
むしろ醜いと思う人だっていると思う・・
だけど・・
誰もが若いときがあり、やがては歳をとっていく
他人にはわからないときを持った老人となって
思い出だけが、ついこの間の出来事のように思い出されてくる
それは、浦島太郎のようだと、つくづく思うのです
亀を助けた若者は、何かを自分の正義と信じて行動している若い自分の姿であって、竜宮城の短い期間は青春から朱夏を迎え・・そう今の私たちのように、子育てに夢中になって生きることを本当の意味で楽しむ時代・・ そうしてその期間はあっという間にすぎて、気がつけば、玉手箱を開けて一瞬のうちに老人になってしまったのと同じように、時があっというまに過ぎ去っていってしまったのを感じる・・・
いつか、私も、かつて父が死を宣言されたときに、なにかを想いながら涙を流していたように、自分も自分の人生を思いながら、そして自分の周りにいる人とのことを考えながら、きっと・・・きっと、短かった人生に幕を下ろす準備をするのだと思う
30歳代にはなかった感覚・・ まさしく人生の折り返し地点となっているのが今なのだと思う・・ あと何年とか、もっと生きたいとか・・そんなことは思わない ただ、これから先なにが待っているんだろう?とまっすぐな気持ちで過ごしてきた今までとは違った時間を感じる年齢になったのだとつくづく思う
二日分みたので、実際には4日分(1日二日分放送していた模様)見てしまったのですが・・
なんだか涙が出てとまらなかったです
千葉真一が、見ようによっては大根役者っぽかったのにもかかわらずちょっと父に面影が似ていて、なおかつ結婚や出産のことがオーバーラップしてしまってね・・
実はヨルダン駐在中に日本に一時帰国して子宮筋腫の手術をしたのですが・・手術と術後の経過はほとんど「楽勝〜!」っていう感じだったのですが・・・ 最初の検診のときに、ちょうどどこかのおうちの赤ちゃんが産まれたみたいで、両家の親がばたばた〜っとうれしそうにかけこんできた・・という場面に遭遇したのです そのときにはすでに父を亡くしていたのですが、その姿をみて・・ 恥ずかしながら診察室の前の待合のところでポロポロ泣いてしまった あぁ・・私たちもああいうときがあったなぁ・・ってね・・ 父も母もまだまだ元気で、父にいたっては「孫が生まれてもおじいちゃんとは言わせない 親戚のおじさんと言わせる!」なぁんて強気でいっていたころでね・・ ところがなかなか産まれてこなかった長男がやっと産まれたとき、その長男を見ながら、父と母は涙してた 私はそれは見ていなかったのだけど、ビデオで後で知ったのだけど・・ 二人とも産まれてきた長男を「天使のようだ」といって、とても喜んでくれた あのときの家族の有様が、ふつふつと思い出されてきて、若く見えるご両親が、初めて孫を迎える・・あるいは、娘・嫁が子供を産むという一大イベントを・・走ったり叫んだりして、ほんと幸せそうにしているシーンが目の前で展開されていたのを見て・・ もうあれは15年も昔の話になってしまったのだ・・ 15年という長いようで短いときの間に、父は亡くなり、母も年老いてしまって、すっかり身の回りの風景が変わってしまった そう思うと、とてもさびしくなってね・・ 人生なんてあっという間で、子供のころから大人になるまでは考えもしなかったような、そんな寂しさというか・・ よくわからないのだけど、虚しさとは違った切ない気持ちに襲われたのです TVドラマを見ながら、また同じような気持ちになってしまっていました
大学のときに、フランス文学の講義をとったのですが、こんな詩があったのを思い出します
秋の日の
ヰ゛オロンの
ためいきの
身にしみて
うら悲し。
鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。
げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。
(ヴェルレーヌ 「落ち葉」上田敏訳)
私はいつも
雨がふる駅舎に みすぼらしい老人が
窓にぴったりとよりそって 外を見ている
その老人の目からは 涙があふれているのだけれど
まわりの人はだれも老人には関心がない
そんなシーンで思い出したりするのです
詩はすっかり忘れていましたけど・・・
この詩は、詩嫌いの私としては珍しく心に焼き付いてね
映画のワンシーンのようにふと思うことがよくあった
今もそう・・ 人生とはそういうもので
老人の感傷というのは、周りの若者には無縁になりがち
むしろ醜いと思う人だっていると思う・・
だけど・・
誰もが若いときがあり、やがては歳をとっていく
他人にはわからないときを持った老人となって
思い出だけが、ついこの間の出来事のように思い出されてくる
それは、浦島太郎のようだと、つくづく思うのです
亀を助けた若者は、何かを自分の正義と信じて行動している若い自分の姿であって、竜宮城の短い期間は青春から朱夏を迎え・・そう今の私たちのように、子育てに夢中になって生きることを本当の意味で楽しむ時代・・ そうしてその期間はあっという間にすぎて、気がつけば、玉手箱を開けて一瞬のうちに老人になってしまったのと同じように、時があっというまに過ぎ去っていってしまったのを感じる・・・
いつか、私も、かつて父が死を宣言されたときに、なにかを想いながら涙を流していたように、自分も自分の人生を思いながら、そして自分の周りにいる人とのことを考えながら、きっと・・・きっと、短かった人生に幕を下ろす準備をするのだと思う
30歳代にはなかった感覚・・ まさしく人生の折り返し地点となっているのが今なのだと思う・・ あと何年とか、もっと生きたいとか・・そんなことは思わない ただ、これから先なにが待っているんだろう?とまっすぐな気持ちで過ごしてきた今までとは違った時間を感じる年齢になったのだとつくづく思う
コメント