隣のクラスなのですが、非常によくない状態が続いている上に、あってはならない事件があったようです

一人の男の子が先生に黒板消しをぶつけた・・ということがあったらしいのですが・・それってほんと先生をバカにした態度でクラス全体の雰囲気が見ててきて非常に不愉快になりました

もし、逆の立場だったら、先生が子供に黒板けしを投げるなんて言語道断ですよね!たちまちのうちに大騒ぎになる!っていう感じです もちろんその先生の責任問題になる ところが逆だと、子供も親もどうなってるんでしょう?非常な侮辱を先生に与えたということへの認識がないのでしょうか?あるいは学校側の対応も、その子供や親の現在置かれている環境に配慮して柔和な対応をされているようですが(もちろんその場では怒っているのでしょうけれども)そのような甘い対応でよいのでしょうか?なにより本人およびその親がどう感じているのでしょう?

そのクラスの学級委員さんとも少し電話で話をしました 明日そのことについて親と学校側が集まるらしいのですが・・集まるっていってもそれなりにやはり親が学校に対して覚悟をもって協力体制を本気で引いていかなければ、子供の態度はいつまでたっても不遜のままで、収拾がつかないのは目に見えています ある保護者の方が「順番に親がクラスを見に行ったほうがいい」とおっしゃっているようですが、学校側としては「監視している姿勢がつよくなるのでちょっと・・」という校長先生の話があったようですけれども、現状先生方からはしっかりと監視体制を引いてくださっているのは事実・・ 親が参加するならば「先生を見張る」のではなく、子供たちをみてますよ・・態度の悪い子供たちがいないかどうか、親がくるまでになってるんですよということをなんらかの形で子供に知らせないと意味がないんじゃないか?って私の意見を述べておきました 

以前「二十四の瞳」の映画の感想を聞きましたが、今はアノ頃と違って先生に悪さをした後の子供たちの様子がまったく異なる 昔は子供たちが自ら先生にいけないことをしたと反省できるだけの人間関係があった・・ さらには内省するだけのモラルもそれなりにあったというのが映画では感じられた・・ しかし、今の状況をみていると、要因は複雑に絡み合って問題解決に進むには難しいものを含んでいるように思えてならないのです その要因をいくつかあげてみると

1)子供たちが他者に迷惑をかけたり傷つけたりすることに対して無関心あるいは平気になっている 
2)言葉遣いが乱暴で、容易に人を傷つける言葉をつかう ウザイ、死ね、キモイなど、最近流行っている言葉そのものにも、子供の配慮のない短絡的思考が現れている
3)子供たち同士で問題解決しようという傾向がみられず、逆に先生をいじめる あるいは困らせることをいじわるく楽しんでいるふうでもある
4)遊びといえば家にとじこもっての少人数のゲームが多く、小さい子から大きな子までが縦社会を子供の時から自然に学んでいく経験がないため、子供同士でリーダーができあがらず、クラスのことを面倒みれるような存在がいない 特に女子にしっかりとしたリーダーが見られなくなった 精神的に熟している女子は、ただ生意気だったり不遜だったりする傾向になってしまっている

5)子供たち同士でのいじめも進んでいるようで、ようするに先生いじめをするのも、誰かにやらせてしまっているという、子供同士のイジメの一つの変形したものにすぎない 目にみえる形ではどこにイジメが存在するかは一見してはわからない質の悪さになってもきている
6)家庭環境も短絡的な方向性がある 離婚家庭が多く、また進行中の家庭や、潜在的家庭も多い
7)問題を起こす子供の親に限って子供への無関心度が高い
8)問題があるからと、授業の自由参観を呼びかけても誰もこない 問題があっても対処する力や時間を親も積極的に持とうとしない 問題が大きくならなければ大体において学校のことについては無関心 親も自分の子供のことを見ていればそれでいいという自己中心的な傾向が強くなっていて、それが子供にも反映され、自己中の子供も多くなっている
9)生徒の求心力が弱い、優しいだけの先生が増えている
10)授業内容の低下とともに、学校の勉強の指導で生徒の集中力を求めるのが難しくなっている 学校の勉強さえさせていればある程度は勉学が身につくという意識が希薄になっているため、子供も親も学校の授業を軽視、それがそのまま学校の軽視、先生の軽視につながっている

ざっと挙げただけでも、このような要因があると思われます ようするに「自分さえよければそれでいいと思っている親のもとで育った子供たちが乱暴な言葉遣いしか使わず、それにともなって乱暴で軽率な行動をとる子供が多くなり、善悪をきちんと判断できるリーダーのいない学級になってきている」のが事実だと思う 特に公立は・・

結局のところ、親が変わらなければ子供も変わらない・・少子化対策で、シングルマザー応援になっている社会がある中、離婚を容易にする家庭も多くなっているのでは?と懸念します そういった短絡的な傾向は、子供にも当然反映され、子供も我慢ができない、問題解決はALL OR NOTHING という過程を重視できない子供になってしまっているのではないでしょうか?

私の考えは具体的にこれといったデータをとっているものでもなく、むしろ学校にちょくちょく顔を出すときに子供たちとの会話や親との会話を通して直感的に感じているものばかりです 特に、長男の世代の親と、次男の世代の親とのギャップを感じてならないのです それは私たちの親を境にして、考え方が歴然と違ってきている 駐在中にも感じていたことですが、私たち世代はまだまだ子供のころは日本も貧しかったし、ゲームなどもなかった・・ しかし私たちと10歳離れてくると(要するに30代)マジョリティーとしては、お金に不自由なく育った裕福になった状況で子供時代をすごし、兄弟も少なくなってきている年代となってしまっているわけです(例外もありますが、マジョリティーとしての判断) 駐在中はボランティアをすることが多いのですが、30代の女性は姿形はこぎれいにしていても、手に汗して誰かのためにとか、コミュニティ全体のためになどと、ちゃんと意識をもって自発的協力をしてくれる人の割合は、確実に少なくなってしまっている とくに初めて駐在する人は顕著です なれない駐在のことだけに視点が偏ってしまい、おのずと保身の傾向が強くなっているのがよくわかります ゆえに、中心的に物事をすすめる立場になったとしても、強制できない あるいは協力を期待しないというスタンスが私の中ではできあがってしまっているのです 駐在する方が多い生活環境にいますが、ほかの駐在地でも、すでに所長夫人だけが会社の接待などをこなし、もはや年代の低い人がそれをバックアップするといった形は旧態依然としたものになってきている方向性がある(もちろん旧来の駐在夫人の生活形態がよいとばかりは言い切れませんが・・)のは、日本も外地も同じですね

私はやはりどうしても『衣食住足りて礼節を知る』という言葉を意識してしまいます 衣食住という生活の基本的なものがそろっているならば、礼節を知ることができる人間の素地はできうるはず・・それなのに日本人ときたらボランティア意識が少なく、ようするに「貢献」や「献身」といった事柄には無頓着で、さらなる贅沢に向かって自分だけを裕福にしようとしている(ここのところは生活するので手一杯とおっしゃる方も当然いらっしゃるかもしれませんが・・もし専業主婦で私立の大学まで子供をいかせることができるようになったとして、果たして考え方を変更できるかどうかも現在のPTAの状況を見る限りでは疑問が残ります)

ライブドア事件は、氷山の一角なのかもしれない・・手に汗して努力を重ねてお金を「いただく」という精神を、もう一度考えなければ、社会全体がつぶれてしまうのだと、非常に懸念するところです

コメント

お気に入り日記の更新

最新のコメント

この日記について

日記内を検索